(先生の現代文授業ノート)中原中也「サーカス」
left★板書(+補足)★
「現代文授業ノート」(普通クラス)
   中原中也 「サーカス」

〈出典〉
・初出 昭和4年(1929)雑誌「生活者」10月号
    初期詩篇6編(「朝の歌」「春の夜」…)の
    一篇「無題」として発表(作者22歳
・後に 昭和9年(1934)『山羊の歌』収録

〈作者〉
・明治40年(1907)〜昭和12年(1937)
ダダイズム・フランス象徴詩の影響を受けた
 独自の暗喩表現・音楽性(リズム感)に特徴
・詩集 第一詩集『山羊の歌』(1934年、27歳
    第二詩集『在りし日の歌』(1938年)
          (中也没後、小林秀雄が刊行)
 →弟・父・恋人・親友を次々と失い、愛児もわずか   2歳で亡くなった、喪失感(哀しみ)・退廃感が   作風に表れる

〈表現〉
口語自由詩(一部、七五調定型の響き)
・同じ言い回しの繰り返し(リフレイン)
 →歌うようなリズム(音への繊細さ)
・「幾時代かがありまして……戦争・疾風」
 「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」3回繰り返し
 →オノマトペ (音楽性・リズム→聴覚的に表現)
・(U字形の)行の上げ下げ   (視覚的に表現)

〈概要→観賞〉
〇サーカス小屋の高い所で、空中ブランコの曲芸師が
 揺れて動いている具体的な情景を描写することで、
 <喪失感や孤独感に満ちて揺れる作者の心象風景>
 (内面)を、音楽性や暗示性によって象徴的に表現  した、八連構成の詩である
       (具体的な情景描写が目的ではない)


〈全体の構成〉   (←時間・場面・情景・心情)

≪一段≫【第一連】〜【第三連】<開演の挨拶>
サーカスの地方興行
 ・空地に設置した
  場末の粗末なサーカス小屋にて
   (汚れ木綿・安値いリボン・屋外は真っ暗闇)
<開演の挨拶>(興行主の口上)
 ・幾時代かがありまして…戦争・疾風(象徴)
             (挨拶→丁寧語の口調
  →厳しさと辛さが多い人々の日常  (→埋没)
    ↓(過ぎた日を懐かしむ思い)
 ・此処での一と殷盛り(サーカスの賑わい)
  →(人々を癒やす)束の間の賑わい

≪二段≫【第四連】〜【第七連】<空中ブランコ>
空中ブランコ      (→揺れ動く振り子運動)
 ・行の上げ下げ     (→視覚的工夫)
 ・オノマトペ(「ゆあーん」→聴覚的工夫)
<観客の視点>(第四連〜第六連)
 ・咽喉を鳴らし見上げる(驚嘆…日常性に埋没)
    ↓↑(視点の転換→二行書き)
<ブランコ乗りの視点>(第七連)
 ・「観客様」を見下ろす(揶揄…非日常性の志向)

≪三段≫【第八連】<終演の挨拶>
<終演の挨拶>(興行主の口上)
             (挨拶→丁寧語の口調
 ・全行5字下げ→興行が終わった物悲しい雰囲気
    ↓
 ・屋外は真っ暗→物悲しい夜の時間
 ・落下傘(比喩)=小屋のテント(→賑わい)
    ↓
 ・ノスタルヂアと
     (故郷や過ぎた日を思う気持ちのように)
 ・ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
    ↓ →揺れ動くブランコを思い浮かべながら
 =作者の内面(自嘲的な表現?)

〈授業の展開〉

<舞台設定>
・いつ  大正時代(1915〜1925年)
・どこで 空地に設置した
     場末の粗末なサーカス小屋にて
・誰が  空中ブランコ乗り・観客・興行主

≪一段≫【第一連】〜【第三連】<開演の挨拶>

【第一連】
幾時代かがありまして
  茶色い戦争ありました
=幾つかの時代がありまして、(その間に)
 茶色い(軍服を着用した兵士が戦場に向かう辛い)  戦争がありました。
【第二連】
幾時代かがありまして
  冬は疾風吹きました
=幾つかの時代がありまして、(その間に)
 冬は疾風が吹き(農作物に被害が出て身体にも辛い  苦難が続くことがあり)ました。
【第三連】
幾時代かがありまして
  今夜此処(ココ)での一(ヒ)と殷盛(サカ)り
    今夜此処での一と殷盛り
=幾つかの時代があり(辛いこともあり)ましたが、
 今夜はここ(のサーカス小屋)での束の間の賑わい  で(どうぞ忘れて気持ちを癒やして下さいませ)。  今夜はここでの束の間の賑わいで(どうぞ忘れて
 気持ちを癒やして下さいませ)。

▼〈まとめ〉
サーカスの地方興行
 ・空地に設置した
  場末の粗末なサーカス小屋にて
   (汚れ木綿・安値いリボン・屋外は真っ暗闇)
<開演の挨拶>(興行主の口上)
 ・幾時代かがありまして…戦争・疾風(象徴)
             (挨拶→丁寧語の口調
  →厳しさと辛さが多い人々の日常  (→埋没)
    ↓(過ぎた日を懐かしむ思い)
 ・此処での一と殷盛り(サーカスの賑わい)
  →(人々を癒やす)束の間の賑わい

≪二段≫【第四連】〜【第七連】<空中ブランコ>

【第四連】
サーカス小屋は高い梁(ハリ)
  そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ
=サーカス小屋は高い(所に)梁(を架け渡して)
 そこに一つの(空中)ブランコ(があるの)だ
 (高すぎて、観客からは見えるようで)見えにくい  ブランコ(なの)だ
【第五連】
頭倒(サカ)さに手を垂れて
  汚れ木綿の屋蓋(ヤネ)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
=(ブランコ乗りは)頭を倒さにして手を下に垂れて
 汚れた木綿の(テントの)屋蓋の下(で)
 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
 (と振り子運動をしながら揺れ動くのである)
【第六連】
それの近くの白い灯が
  安値(ヤス)いリボンと息を吐き
=その(空中ブランコ)近くの白い(照明の)灯が、  安っぽいリボンのような(白い)息を吐き(続ける  ように、長い光線で曲芸師を照らし続けている)
【第七連】
観客様はみな鰯(イワシ)
    咽喉(ノンド)が鳴ります牡蠣殻(カキガラ)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
=観客様はみな、鰯(の群れが海の中で一斉に向きを  変えるように、高い所でのブランコ乗りの演技を、  皆が同じように注目し首を動かしながら見上げて)
 (ブランコの曲芸に驚いて、思わず生唾を呑み込む  ように歓声を上げ)咽喉が鳴っていらっしゃる。
 牡蠣の殻(が擦れて鳴る汚い音)のように。  (ブランコ乗りはそんな観客を見下ろしつつ)
 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
 (と振り子運動をしながら揺れ動くのである)

▼〈まとめ〉
空中ブランコ      (→揺れ動く振り子運動)
 ・行の上げ下げ     (→視覚的工夫)
 ・オノマトペ(「ゆあーん」→聴覚的工夫)
<観客の視点>(第四連〜第六連)
 ・咽喉を鳴らし見上げる(驚嘆…日常性に埋没)
    ↓↑(視点の転換→二行書き)
<ブランコ乗りの視点>(第七連)
 ・「観客様」を見下ろす(揶揄…非日常性の志向)

≪三段≫【第八連】<終演の挨拶>

【第八連】
     屋外(ヤガイ)は真ッ闇(クラ) 闇(クラ)の闇(クラ)
     夜は劫々(コウコウ)と更けまする
     落下傘奴(ラッカガサメ)のノスタルヂアと
     ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

=(楽しいサーカスも終わり)屋外は真っ暗闇(で)  (全く)暗闇の暗闇(であり)
 夜は(ゆっくりと)果てしなく更けていきます。
 落下傘(のような形のサーカス小屋で)の(賑わい  を、故郷や過ぎた日を懐かしく思う)ノスタルヂア  のよう(な出来事みたい)に
 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
 (と揺れるブランコをしみじみ思い浮かべながら、  皆様、どうぞお気を付けてお帰り下さいませ)

▼〈まとめ〉
<終演の挨拶>(興行主の口上)
             (挨拶→丁寧語の口調
 ・全行5字下げ→興行が終わった物悲しい雰囲気
    ↓
 ・屋外は真っ暗→物悲しい夜の時間
 ・落下傘(比喩)=小屋のテント(→賑わい)
    ↓
 ・ノスタルヂアと
     (故郷や過ぎた日を思う気持ちのように)
 ・ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
    ↓ →揺れ動くブランコを思い浮かべながら
 =作者の内面        (自嘲的に表現?)

〈主題〉
省略→〈概要〉

〈自分勝手な解釈〉
サーカスのブランコなどは何を意味するのだろうか。 恐らく「空中ブランコ」の曲芸演技は「詩」であり、 「ブランコ乗り」は「詩人」、そして「サーカス」の 「賑わい」「観客」は一般の読者や文学仲間ではない だろうか。
喪失感と孤独感の淵で揺れ続けていた作者中原中也。 その揺れる心象を新しい手法で表現しようと心が高揚 することもあった。
文学を志す若き仲間たちは驚き、称賛の拍手を惜しみ はしなかった。得意で大きく揺れるような思いがした が、夜が更けると友は去て行き、再び喪失感と孤独感 の淵に落ちて行き、哀しく揺れ続けるしかなかった。
幼くして弟を亡くし、神童だったのが落第し、転校先 で女性と同棲するも、共に上京した東京で愛人が親友 の元に去ってしまう。
その最も哀しい淵で漂っていた大正14〜15年頃、 まだ18〜19歳の時の揺れる思いが、草稿となった のでないだろうか。





〈参考〉
〇ダダイズム=第一次世界大戦中(1914年〜)欧米
 で起きた既成の秩序・常識を否定する芸術運動。
 戦争による破壊と殺戮は「人間に理性はあるのか」  という疑問を抱かせ、<理性を根本的に否定>し、  芸術・全文明さえも否定するような考え方が現れ、  意識的な作為を否定し、意識の下に存在する広大な  無意識下による偶然性・無作為性・無意味性の中に  美を見出そうとした

〇象徴詩=19世紀末、自然主義の客観主義への反動  としてフランスからヨーロッパ諸国に広まった詩。  外界の写実的描写よりも、内面世界の主観的表現を  重視する。即ち<掴み難い想念の世界(主題)>
 詩句の<音楽性・映像性・暗示性によって象徴化>  して表現し、直接的に叙述しない。フランスの詩人  ボードレール・ランボー・ベルレーヌらが有名。

☆明38(1905)上田敏『海潮音』(訳詩集)
 ・フランスの象徴詩を紹介
 ・(ドイツの詩人)カールーブッセ「山のあなた」

  山のあなたの空遠く
  「幸」住むと人のいふ
  噫(ああ)、われひとと尋(と)めゆきて
  涙さしぐみ(涙ぐみて)かへりきぬ。
  山のあなたの空遠く
  「幸」住むと人のいふ

right★発問☆解説ノート★
(詩)2019年8月



<初稿の制作は、大正14年(1925)〜15年>
 (作者18〜19歳)と考えられる(明らかではない)
 →同棲中の長谷川泰子が小林秀雄の元へ去った頃、
  「朝の歌」と前後して原題「無題」は書かれた


・象徴=(目や耳などで直接知覚できない
    抽象的な事物・観念・思想・意味などを、
    具体的な事物により理解しやすく表すこと。
    直接的に表しにくい観念や内容を
    想像力を媒介に暗示的に表現する芸術の手法
 →鳩は平和の象徴・王冠は王位…・白は純潔…
・象徴詩に影響を受けた独自の抒情詩








<ブランコの揺れを表現>するための工夫
 1.オノマトペ  2.(U字形の)行の上げ下げ
・宮澤賢治『春と修羅』(詩集)に学ぶ

人間の理性や常識を否定する退廃的で哀しい喪失感  に満ちた作者の内面を、具体的な情景の描写と共に  詩句の音楽性・映像性・暗示性によって象徴化して  表現(情景描写よりも、奥に潜む心象風景に意味)  →現実のサーカスではなく、イメージの中のものを   詠ったものと考えられる(または、懐かしい日々   での実際の体験を思い浮かべては、現在の心情を   重ね合わせたのかも知れない)

〈教材〉

    サーカス            中原中也
【第一連】
幾時代かがありまして
  茶色い戦争ありました
【第二連】
幾時代かがありまして
  冬は疾風吹きました
【第三連】
幾時代かがありまして
  今夜此処(ココ)での一(ヒ)と殷盛(サカ)り
    今夜此処での一と殷盛り

【第四連】
サーカス小屋は高い梁(ハリ)
  そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ
【第五連】
頭倒(サカ)さに手を垂れて
  汚れ木綿の屋蓋(ヤネ)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
【第六連】
それの近くの白い灯が
  安値(ヤス)いリボンと息を吐き
【第七連】
観客様はみな鰯(イワシ)
    咽喉(ノンド)が鳴ります牡蠣殻(カキガラ)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

【第八連】
     屋外(ヤガイ)は真ッ闇(クラ) 闇(クラ)の闇(クラ)
     夜は劫々(コウコウ)と更けまする
     落下傘奴(ラッカガサメ)のノスタルヂアと
     ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん







・初稿の制作は、大正14年(1925・作者18歳)〜
・汚れ木綿・安値いリボン・屋外は真っ暗闇
 →さすらい続ける旅の芸人による小さなサーカス団
  が多く、空地のテント小屋で行われた




・七五調のリズム、同じ言い回しの繰り返し
・日清戦争・日露戦争・第一次大戦?
 (1894〜95)(1904〜05)(1914〜18)
☆戦場に向かう当時の兵士は、茶色い軍服を着用した


☆身体に辛く農作物にも被害が出る苦難の時が続いた
    ↓ (戦争・冬・疾風→隠喩=メタフアー)
※幼い時から現在まで辛く苦しかった時代が続いた、  哀しい喪失感に満ちた孤独な<中原中也の内面>を  暗示性によって象徴的に表現
 →深い心の傷・喪失感・悔いの多い人生をしみじみ   と哀惜しながらも、少し距離を置いた視点で追憶

・一と殷盛り=(束の間だが)賑わい繁盛すること。
            →「殷盛」「殷賑」
 →雑誌・ラジオ・テレビもない娯楽の乏しい時代で
  舞台・寄席・サーカス等の演芸しかなかった
 =僅かな娯楽で慰安を求めては、また貧しく厳しい   暮らしに戻るしかない、日常性に埋没した人々











〇場末の酒場で一人寂しく酔っ払って束の間の癒やし  を得た、作者中原中也の夢物語だろうか(?)



・梁=(柱をつなぎ)屋根の重みを支えるための横木

☆空中ブランコは高すぎる所で演技され、観客からは
 見えるようで、はっきりと見ることができない




<ブランコ乗りが上下左右に高く低く揺れている>  様子を表現するオノマトペ(擬態語・擬音語)
 →高い位置から鰯のように並んだ観客を見下ろし、   楽しむように演技しながらゆっくりと揺れ続ける
 →「ゆらり・ゆるり・ゆったり・ゆれる」の語は、   「不安定・甘い気怠さ・たゆたい」のイメージ
※喪失感や孤独感に物憂く揺れ続け、あちらこちらと  <無限の中に漂っている作者の心>を表現
 →作者の心象が音楽性に昇華した形で心に響く
・…と=…のように(な)→比喩(…山と積み上げ)
☆粗末な小屋の屋蓋には汚れた木綿が張られていて、  近くの白い照明が安っぽいリボンのような長い光線  で、ブランコ乗りを照らしている

鰯の群れが、海の中で一斉に向きを変えるように、  高い所でのブランコ乗りの演技を、皆が同じように  注目して首を動かしながら見上げる滑稽な観客の様  を揶揄する表現(←ブランコ乗りの視点)
☆ブランコの曲芸に驚いて、思わず生唾を呑み込んで  上げる観客の歓声が、牡蠣の殻が擦れて鳴る汚い音  みたいだと揶揄(←ブランコ乗りの視点)
・…ます=(四段型・動/ 補動)尊敬(いらしゃる)
     (サ変型・助動)謙譲・丁寧

※高所で演技するブランコ乗りも、見上げる観客も、  作者も、心と身体は揺れ続けて定まることはない







※皆が驚く曲芸をして注目の的であるブランコ乗りの  視点は作者の視点だが、観客の見るブランコ乗りは  作者の心の中に映る自身の姿である。



・劫=極めて長い時間(→永劫=限りなく長い年月)
 劫々と=いつまでも・果てしなく
 →夜が劫々と更ける
 =(ゆっくりと)果てしなく夜が更けていく
・落下傘=パラシュート (→サーカス小屋の比喩)
・ノスタルヂア=過ぎた日々を懐かしむ気持ち・郷愁
興行も終わり夜が更けて行く、との終演の挨拶
 →場末の小屋で、外は街灯もなく真っ暗なのだろう
※夜が果てもなく更けて行き、いつまでも真っ暗闇で  ある中に、再び溶け込んで漂う作者の心を暗示?
落下傘のような形のサーカス小屋の賑わいの中で、  「ゆあーん………」と揺れる空中ブランコの脳裏に  残る残像を、過ぎた日を懐かしく思うノスタルヂア  のような出来事としてしみじみ思い浮かべながら
 どうぞお気を付けてお帰り下さい、との終演の挨拶
喪失感に満ちた哀しさや寂しさに物憂く揺れ続けて  無限の中に定めなく漂う中で、
 落下傘のように更に真っ暗な闇の中に落ちて行き、
 物悲しく暗い夜の時間が果てしなく続くかのような  中原中也は、子供の頃の親の温かい愛情に包まれて  何も思い悩むことがなかった故郷を懐かしく求める  ノスタルヂアに浸って揺れ続けているしかなかった




・ノスタルヂアに浸る自身を「落下傘奴」と自嘲的に  語る(?)

〈感想〉
サーカスのブランコは、恐らく現実ではなくイメージ の中のものだろう。その情景を詠うことで、喪失感の 哀しみで暗闇に沈みながら時に高揚して揺れるような 作者自身の内面世界を、音楽性と暗示性により象徴的 に表現している、と思われる。
とにかく、難解で理解を超えたような詩だ。

〈参考〉…本書解説
 この「幾時代」というのは、歴史上の時代を言って いるのではなく、それを繰り返すことによって、遠い 過去を暗示している。この詩はこの後でサーカス小屋 の中の風景を歌い、最後は「屋外」の暗い夜の時間が 「劫々」と無限の未来へ向けて流れていく詩句で締め くくられている。サーカス小屋の賑わいは、そのよう な無限の時間の中の「現在」という一点、一風景に過 ぎない。

〈参考→作者年譜〉
明治40年(1907)〜昭和12年(1937)
     山口県湯田温泉生まれ。代々開業医の名家      の長男で、医者になることを期待される。
     生後間もなく、陸軍軍医の父の任地である
     旅順・広島・金沢と移る。
大正03年(1914)故郷山口の小学校に入学
     成績優秀で神童と呼ばれる。
     8歳の時、弟が病死して、文学に目覚め、
     フランス語を学ぶ。
大正09年(1920)山口中学
     短歌制作に没頭、学業を怠る(13歳)
大正12年(1923)落第、京都の立命館中学に転校
     フランス象徴派文学を知り、詩作を始める
     女優志望の長谷川泰子と同棲(16歳)
大正14年(1925)二人で上京するが、同棲中の
     <長谷川泰子が小林秀雄の元へ去る>
     衝撃は詩作の深い動機づけとなる(18歳)
大正15年(1926)日本大学予科(19歳)
    衝撃の中「朝の歌」を書く(詩人として出発)
     (孤独な精神の揺らぎの中で夢を追想)
昭和04年(1929)大岡昇平らと雑誌「白痴群」創刊
     雑誌「生活者」に初期詩篇の一篇「無題」
     として「サーカス」発表(作者22歳)
昭和08年(1933)東京外国語大学卒業
     遠縁の上野孝子と結婚、アパートには小林      秀雄・大岡昇平らがよく訪れる(26歳)
昭和09年(1934)長男誕生
     第一詩集『山羊の歌』出版
     象徴派的作風が注目される(27歳)
昭和11年(1936)愛児(2歳)が死亡
     悲嘆のあまり神経衰弱(29歳
昭和12年(1937)療養生活。10月、
     (急性)結核性脳膜炎で死去(30歳)
     350編以上の詩を残す
翌 13年(1938)第二詩集『在りし日の歌』      (没後、託された小林秀雄が刊行)

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