2011.04.10

(京阪神から行く 旅と温泉HP)

『万葉集』入門:「遠の朝廷」についての考察

 

万葉の頃、北部九州は筑紫と呼ばれていたが、そこには「遠の朝廷」と称される公の機関があった。大和の「朝廷」の出先のようなものとして位置づけられているようだ。やや時代を遡った古代の機内において、「近つ飛鳥」と「遠つ飛鳥」があったことを想起させるが、あまり関係はないだろうか。

 

ちょっと寄り道をして行こう。前者は河内国(大阪府)の、そして後者は大和国(奈良県)のもので、難波宮からの遠近によって称されたようである。元々は、「飛ぶ鳥の明日香」と枕詞であったが、そのうちに「飛鳥」だけで「アスカ」を意味するようになったようだ。

DSCF4372.JPG「アスカ」の語源は、外来語由来説・地形名称来説などがあるが、はっきりしてはいない。渡来人が、あたかも飛ぶ鳥の移動のような流浪の旅の末、日本に来て安住の宿として落ち着いた場所(安宿)だからだ、というような説もある。因みに、「安宿」は韓国語で「アンスク」と言い、これが訛って「アスカ」になったそうだ。それから、法隆寺のある「斑鳩」もそうだが、鳥の名に由来するのが面白い。また、7世紀は飛鳥時代とされるが、他にも「白雉」「朱鳥」「白鳳」なども、鳥の名を冠した時代である。

 

さて、この「遠の朝廷」とは、果たしていかなるものだろうか。確かに、大和の「朝廷」が政治・経済・文化の中心ではあっただろう。しかし、唯一絶対のものではなかったのではないだろうか。

 上毛野がある東国、越や出雲がある日本海側、畿内と大陸を結ぶ瀬戸内、そして筑紫や阿蘇や日向などがある九州なども、大和ほどではなかったかも知れないが、独自の核となる地域となりえていたのではないだろうか。そして、当時の日本人の意識は、一衣帯水の関係にあり任那とも呼ばれた加耶諸国や百済にも、大和に劣ることがないほどに向けられていたように思えてならない。『万葉集』・『日本書紀』を読めば、それは十分にうかがい知ることができる。

これは何を意味しているのだろう。

 (画像は、2006年7月鳴門海峡にて)

 

 

 

2011.09.25

『万葉集』入門:「遠の朝廷」についての考察(2)

 「遠の朝廷」を詠んだ歌に次のようなものがある。

柿本朝臣人麻呂下筑紫国時海路作歌二首

(柿本朝臣人麻呂の筑紫国に下りし時に、海路にして作りし歌二首)

   大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念

  (大君の 遠の朝廷と あり通ふ 嶋門を見れば 神代し思ふ)  (巻3−304)

  (岩波古典体系訳:大君の遠く離れた政庁へと行き通い続ける海峡を見ると、神代の昔が思われる。)

(旧岩波古典体系訳:都から遠く離れた朝廷であるとして、人々が常に往来する瀬戸内海の島門を見ると、この島々の産み出された神代の国土創成の

頃のことが思われることである。)

 

 万葉の頃、筑紫と呼ばれていた北部九州にあった公の機関で、大和の「朝廷」の出先のようなものとの位置づけが通説だそうだ。古代の機内にあった「近つ飛鳥」と「遠つ飛鳥」を想起させますが、果たしてそのように「出先」だったのだろうか。

 「嶋門」とは、明石海峡・吉備の児島・関門海峡・博多湾岸志賀島などとされている。万葉の頃、難波から吉備や瀬戸内そして筑紫と、青々とした海の中に点在する島々の間を縫うように進む船、こんな情景を彷彿とさせるではないか。とにかく、瀬戸内海や九州に旅したくなるような有名な歌だ。

加耶・対馬、そして瀬戸内・難波・飛鳥…、それらを結ぶ所が、九州である。限りないロマンを秘めているようでならない。

 

「遠の朝廷」とは、「都から遠く離れた朝廷・地方の政庁」という意味である。太宰府のことだが、他に国府や韓半島の日本の政庁を指すこともあるようだ。一体どうしてこのような呼称がなされたのだろうか。中西進氏は、「遠の朝廷」を柿本人麻呂の造語とする(★中西進「『万葉集』と太宰府」)。太宰府は、政庁跡なども確認されており、確かに存在した。文献での初出は、天智天皇10年(671)である。奈良・平安時代では、西海道諸国の管轄・外交使節の接待・外敵からの防衛の任などが課せられていたようだ。構成も、帥(長官)・主神(カンツカサ:祭事を掌る)の下に官衙・官人を設置するという、中央の二官八省を小規模にしたようなものとなっている。

巻3−304では、「筑紫国に下りし時」とはあるが、平城京に都が移った8世紀に詠まれたものだからであろう。『万葉集』には、この「遠の朝廷」を詠んだものが全部で8例ある。以下に、すべて挙げてみよう。

 

2011.09.29

『万葉集』入門:「遠の朝廷」についての考察(3)

 『万葉集』や古代史関係のコミュニティ(ミクシ)に参加することになった。ちょっと遅すぎるが、以下にその自己紹介文をコピーしておく。

 

 「歴史と伝承を訪ねて」というコミュニティに参加させて頂くことになりました。HP・ブログなどでは「カバさん」と称しています。どうぞ宜しくお願いします。

 古代史が好きで、暇をみつけては『万葉集』を紐解いたりしています。仕事にも追われ、なかなかですが…。

 現在、最も関心のあるのが、次の歌にあるような「遠の朝廷」です。

  大君の 遠の朝廷と あり通ふ 嶋門を見れば 神代し思ふ

  (大君の遠く離れた政庁へと通い続ける海峡を見ると、神代の昔が思われる。)

 万葉の頃、筑紫と呼ばれていた北部九州にあった公の機関で、大和の「朝廷」の出先のようなものとの位置づけが通説だそうです。古代の機内にあった「近つ飛鳥」と「遠つ飛鳥」を想起させますが、果たしてそうでしょうか。

 とにかく、瀬戸内海や九州に旅したくなるような有名な歌です。「嶋門」は、明石海峡・吉備の児島・関門海峡・博多湾岸志賀島などとされています。万葉の頃、難波から吉備や瀬戸内そして筑紫と、青々とした海の中に点在する島々の間を縫うように進む船、こんな情景を彷彿とさせるではないですか。

 加耶・対馬、そして瀬戸内・難波・飛鳥…、それらを結ぶ所が、九州です。限りないロマンを秘めているようです。

 

 

 

 

 

2011.10.01

『万葉集』入門:「遠の朝廷」についての考察(4)

(「遠の朝廷」についての考察(2)09.25 の続き)

 

『万葉集』には、この「遠の朝廷」を詠んだものが全部で8例ある。以下に、先ほどの巻3−304も含め、すべて挙げてみる。

 

柿本朝臣人麻呂下筑紫国時海路作歌二首

(柿本朝臣人麻呂の筑紫国に下りし時に、海路にして作りし歌二首)

   大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念

  (大君の 遠の朝廷と あり通ふ 嶋門を見れば 神代し思ふ)(巻3−304)

  (岩波古典体系訳:大君の遠く離れた政庁へと行き通い続ける海峡を見ると、神代の昔が思われる。)

  (補:柿本朝臣人麻呂が指摘する「神代」とは、具体的に何を指しているのだろう。国生み神話の時代、それとも神武天皇の東遷伝説だろうか。)

 

 

因みに、直前の巻3−303は、柿本朝臣人麻呂の筑紫国に下りし時に、海路にして作りし歌二首

   名細寸 稲見乃海之 奥津波 千重尓隠奴 山跡嶋根者

     名くはしき 稲見の海の つ波 千重に隠りぬ 大和島根は  (巻3−303)

(訳:名も美しい(名高い)稲見の海の、沖の波の幾つもの重なりの中へ隠れてしまった、山門の懐かしい山々が。)

(…沖合の波、故郷大和の遠景ははるか波の彼方に隠れてしまった。)

(説明:「稲見(印南)の海」は、印南野(明石〜高砂の平野)沿いの播磨灘。)

 

天皇賜酒節度使卿等御謌一首并短謌

(天皇の酒を節度使の卿等に賜へる御謌一首并せて短謌)

   食国 遠乃御朝庭尓  汝等之 如是退去者  

平久 吾者将遊  手抱而 吾者将御在  

天皇朕 宇頭乃御手以  掻撫曽 祢宜賜  打撫曽 祢宜賜

将還来日 相飲酒曽  此豊御酒者

  (訓読)食(ヲス)国の 遠の御朝庭(ミカド)に 汝等(イマシラ)が 是(カ)く退去(マカ)りなば

 平けく 吾は遊ばむ 手抱(タムダ)きて 吾は在(イマ)さむ

  天皇(スメ)と朕(ワレ) 宇頭(ウヅ)の御手(ミテ)もち 掻き撫でぞ 労(ネ)ぎ賜ふ 打ち撫でぞ 労(ネ)ぎ賜ふ 

還(カヘ)り来(コ)む日 相飲まむ酒(キ)ぞ 此の豊御酒(トヨミキ)は  (巻6−973)

(私訳)天皇が治める国の遠くの朝廷たる各地の府に、お前たちが節度使として赴いたら、平安に私は身を任そう 自ら手を下すことなく私は居よう。

天皇と私は。高貴な御手をもって、卿達の髪を撫で労をねぎらおう、頭を撫でて苦をねぎらおう。

そなたたちが帰って来た日に、酌み交わす酒であるぞ、この神からの大切な酒は。

  (補足)「天皇朕」の詞は、集歌974の左注を採用すると、「朕」とは元正太上天皇を示すことになり、「天皇と朕」と訓むことになる。

 

 

 

次に、太宰府に関する歌も、『万葉集』より挙げておく。当然のことながら、かなりの数に上る。

 

防人司佑 大伴四綱の歌二首 より一首

  藤波の 花は盛りに なりにけり 平城の京を 思ほすや君  (巻3−330)

  (校訂原典:藤浪之 花者盛尒 成来 平城京乎 御念八君)

  (訳:藤の花が波うって盛りになったなあ。奈良の都を恋しくお思いでしょうか。あなた。)

  (補:作者は太宰府に赴任していた。藤の華やかさは、美しい奈良の都を連想させる。藤原氏が奈良の都で勢力を伸ばしている時代、逆に大伴氏の衰   

退も始まる。歌では、藤の花と藤原氏をかけているのだろう。藤原氏が全盛の都をどう思うか。残念ではないのか。という気持ちを、同じ太宰府に 

赴任している大伴旅人らにぶつけたものである。〔資料〕中西進「講談社文庫 万葉集」)

 

『万葉集』・『日本書紀』から窺えること、これは何を意味しているのだろう。

 

2011.10.22

(京阪神から行く 旅と温泉HP)

『万葉集』入門:「遠の朝廷」についての「感想」(5)(…「考察」という程ではないので)

(「遠の朝廷」についての考察(4)10.01 の続き)

 

『万葉集』には、この「遠の朝廷」を詠んだものが全部で8例ある。以下に、先ほどのものも含め、すべて簡単に再び挙げてみる。

柿本朝臣人麻呂の筑紫国に下りし時に、海路にして作りし歌二首

  大君の 遠の朝廷と あり通ふ 嶋門を見れば 神代し思ふ (巻3−304)

  (訳:大君の遠く離れた政庁へと行き通い続ける海峡を見ると、神代の昔が思われる。)

  (補:柿本朝臣人麻呂が指摘する「神代」とは、具体的に何を指しているのだろう。国生み神話の時代、それとも神武天皇の東遷伝説だろうか。)

なお、この直前には次の歌があり、参考に記しておく。

名くはしき 稲見の海の つ波 千重に隠りぬ 大和島根は (巻3−303)

     (訳:名も美しい(名高い)稲見の海の、沖の波の幾つもの重なりの中へ隠れてしまった、山門の懐かしい山々が。)

(…故郷大和の遠景は、はるか波の彼方に隠れてしまった。)

 

天皇の酒を節度使の卿等に賜へる御謌一首并せて短謌

食(ヲス)国の 遠の御朝庭(ミカド)に 汝等(イマシラ)が 是(カ)く退去(マカ)りなば

平けく 吾は遊ばむ 手抱(タムダ)きて 吾は在(イマ)さむ

天皇(スメ)と朕(ワレ) 宇頭(ウヅ)の御手(ミテ)もち 

掻き撫でぞ 労(ネ)ぎ賜ふ 打ち撫でぞ 労(ネ)ぎ賜ふ 

還(カヘ)り来(コ)む日 相飲まむ酒(キ)ぞ 此の豊御酒(トヨミキ)は  (巻6−973)

Kanmonkyou1.jpg(訳:天皇が治める国の遠くの朝廷たる各地の府に、お前たちが 

節度使として赴いたら、

平安に私は身を任そう 自ら手を下すことなく私は居よう。

天皇と私は。高貴な御手をもって、

卿達の髪を撫で労をねぎらおう、頭を撫でて苦をねぎらおう。

そなたたちが帰って来た日に、酌み交わす酒であるぞ、

この神からの大切な酒は。)

 

 

 

次に、太宰府に関する歌も、『万葉集』より挙げておく。当然のことながら、かなりの数に上る。

 

防人司佑 大伴四綱の歌二首 より一首

  藤波の 花は盛りに なりにけり 平城の京を 思ほすや君  (巻3−330)

  (訳:藤の花が波うって盛りになったなあ。奈良の都を恋しくお思いでしょうか。あなた。)

 

(画像は、2010年3月関門海峡・壇ノ浦にて)

 

 

 

 

 

 

 

2011.10.30

(京阪神から行く 旅と温泉HP)

随想「遠の朝廷」太宰府を想う(『万葉集』)No.1

(「遠の朝廷」についての「感想」(5)10.22 の続き)

 

「遠の朝廷」とは、一体何なのか。大槻文彦『大言海』では、

1.京都ヨリ遠ク隔タリテ、朝政ヲ行フ所。筑紫ノ太宰府、陸奥の鎮守府、諸国ノ国衙ナドナリ。コレヲ鄙ノ都トモ云フ。

2.専ラ太宰府ノ称。

3.又、三韓ヲモ称す。

と、解釈している。

『日本国語大辞典』(小学館)でも、ほぼ同じで、

1.都から遠く離れた地にある官府。陸奥の鎮守府や諸国の国衙などがこれにあたる。2.特に、太宰府のこと。3.新羅に置かれた官家。

とある。(この部分、古田武彦氏の講演筆録を参照)

 そこで、上記と再三重複するものもあるが、『万葉集』でこの「遠の朝廷」を詠んだもの8例を、以下にすべて簡単に列挙してみる。

 

(1)柿本朝臣人麻呂の筑紫国に下りし時に、海路にして作りし歌二首

   大君の 遠の朝廷と あり通ふ 嶋門を見れば 神代し思ふ (巻3−304)

  (ネット訳:大君の遠く離れた政庁へと、行き通い続ける海峡を見ると、神代の昔が思われる。)

(2)日本挽歌(カナシミノヤマトウタ)一首、また短歌(ミジカウタ) (妻を失った大伴旅人に捧げた山上憶良の歌)

   大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に

 泣く子なす 慕い来まして 息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に 打ち靡き 臥(コ)やしぬれ

言はむすべ 為むすべ知らに 岩木をも 問ひ放(サ)け知らず 家ならば 形はあらむを 恨めしき 妹の命の 吾(アレ)をばも いかにせよとか

にほ鳥の 二人並び居 語らひし 心背きて 家離(ザカ)りいます (巻−794)

  (ネット訳:都を遠く離れた 朝廷の政庁の 筑紫の国の 国庁へと

 妻は泣く子が 親を慕うように 息ついてやってきて 休養をとる間もなく 筑紫に着いたばかりに 思いもかけず ぐったりと 臥せてしまった 

どう言っていいのか どうしていいのか せめて庭の岩木に 問いかけて心を晴らすと言うのか 長旅をせずにクニにあればと 恨めしい

妻としても どうしたらよかったのか 私としても どうしたらよかったのか

カイツブリのように 二人並んで 睦み語らっていたのに 妻はあの世に行ってしまった。)

 

 返し歌

  家に行きて 如何にか吾(ア)がせむ 枕付く 妻屋寂(サブ)しく 思ほゆべしも (795番 山上憶良の歌)

(ネット訳:奈良に帰れば 私はどうすればいいのか 枕を交わして寝た 妻屋にはもう妻はいなく独り寂しく 寝るのであろう。)

  愛(は)しきよし かくのみからに 慕ひ来(コ)し 妹が心の すべもすべなさ (796番 山上憶良の歌)

(ネット訳:ああ 都はるかな筑紫で みまかる運命であったのに 妻は私を慕ってついて来た 妻のその心が 痛ましい 愛しい妻の心根よ。)

 悔しかも かく知らませば 青丹よし 国内(クヌチ)ことごと 見せましものを (797番 山上憶良の歌)

(ネット訳:ああ悔しい こんなことになるのなら はるばると筑紫にまで連れて来ないで 奈良の国中(クンナカ)を

 連れてまわってやればよかったのに。)

 妹が見し 棟(アフチ)の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干(ヒ)なくに (798番 山上憶良の歌)

(ネット訳:妻が来がけに海辺に見た 栴檀(センダン)の花は もう散ってしまっているだろう だのに私の涙は まだ涸れはしない

 逢うすべもなく再び逢うこともない 妻よ)

(補:棟(アフチ)は栴檀(センダン)の古名。瀬戸内では海近くの林内に生える。「栴檀は双葉より芳し」と言われて香木にするセンダンは、ビャクレ

ン科のビャクレンのことで、本種とは別。)

 逢うすべもなく再び逢うこともない 妻よ)

大野(オホヌ)山 霧立ち渡る 我が嘆く おきその風に 霧立ち渡る (799番 山上憶良の歌)

(ネット訳:大野山に 霧立ち渡る 我が嘆く 溜め息が霧となって 霧が立ち渡っている 我が嘆きの霧で山も覆えとばかりに)

(注・詞書:「神亀五年(728年)七月(フミツキ)の二十一日(ハツカマリヒトヒ)、筑前国(ツクシノミチノクチノクニ)の守(カミ)山上憶良上(タテマツ)る」)

(3)天皇の酒を節度使の卿等に賜へる御謌一首并せて短謌

食(ヲス)国の 遠の御朝庭(ミカド)に 汝等(イマシラ)が 是(カ)く退去(マカ)りなば

平けく 吾は遊ばむ 手抱(タムダ)きて 吾は在(イマ)さむ

天皇(スメ)と朕(ワレ) 宇頭(ウヅ)の御手(ミテ)もち 掻き撫でぞ 労(ネ)ぎ賜ふ 打ち撫でぞ 労(ネ)ぎ賜ふ 

還(カヘ)り来(コ)む日 相飲まむ酒(キ)ぞ 此の豊御酒(トヨミキ)は (巻6−973)

(ネット訳:天皇が治める国の遠くの朝廷たる各地の府に、お前たちが節度使として赴いたら、

平安に私は身を任そう自ら手を下すことなく私は居よう。

天皇と私は。高貴な御手をもって、卿達の髪を撫で労をねぎらおう、頭を撫でて苦をねぎらおう。

そなたたちが帰って来た日に、酌み交わす酒であるぞ、この神からの大切な酒は。)

  (補:前の歌に、「四年壬申、藤原宇合卿の西海道節度使に遣さるる時に、高橋連虫麿の作る歌一首」があり、

その次の歌が、「天皇の酒を節度使の卿等に賜へる御謌一首并せて短謌」となっている。)

(4)筑前国志麻郡の韓亭に到り、舟泊まりして三日を経ぬ…(略) (遣新羅大使 阿部継麿の歌)

   大君の 遠の朝廷と 思へれど 日(ケ)長くしあれば 恋にけるかも (巻−3668)

(元暦校本:於保伎美能 等保能美可度登 於毛蔽礼杼 気奈我久之安礼婆 古非尓家流可母)

  (ネット訳:大君の 遠い(朝庭(政庁)に派遣された)使者だなと 思ってはいるが 日数が積もると 家が恋しくなった。)

(補:小学校本では、「大君の遠の朝廷」とは、都から遠く離れた天皇の行政官庁、またはそこに派遣される官人をいう、と解説されている)

(5)壱岐の島に到りて、雪連宅満(ユキノムラジヤカマロ)の忽ち鬼病(エヤミ)遭ひて死去(ミマカ)れる時に作りし歌一首、並びに短歌

   天皇(スメロキ)の 遠の朝廷と から国に 渡る我が背は 家人の 齋(イハ)ひ待たねか ただ身かも あやまちしけむ

 秋さらば 帰りまさむ 垂乳根の 母に申して 時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと 家人は 待ち恋ふらむに

遠の国 いまだも着かず 大和をも 遠く離(サカ)りて 岩が根の 荒き島根に 宿りする君 (巻−3688・柩を引くときの歌)

  (ネット訳:天皇の 遠いお使いとして 韓国に 渡る貴君は 家人が 慎んで待たないからか)

(補:雪連宅満が、筑紫から壱岐島に到りて、急病になって死んだので、それを悼んで作った歌。遠の朝廷=任那日本府(?)、天皇の都から遠く隔た

って政治を行う所=古い朝廷(?)の筑紫から韓国へ渡って行く我が背は、途中の壱岐島で死んだ…。)

(補:小学校本解説に、「オホキミが現在位にある天皇を指すのに対して、セメロキは天皇の祖先としての歴代、あるいはそのうちの特定の一代をいう」

とある。)

(6)防人の悲別(ワカレ)の心を追痛(イタ)みて、詠める歌一首、並びに短歌(ミジカウタ) (大伴家持の歌)

   大王(オホキミ)の 遠の朝庭と しらぬひ 筑紫の国は 賊(アタ)守る 鎮(オサ)への城(キ)ぞと

 聞こしめす 四方の国には 人多(サハ)に 満ちてはあれど 鶏(トリ)が鳴く 東男(アヅマヲノコ)は 

出で向かひ かへり見せずて 勇みたる 猛(タケ)き軍士(イクサ)と 労(ネ)ぎたまひ 任(マケ)のまにまに

たらちねの 母が目離(カ)れて 若草の 妻をも枕(マ)かず あらたまの 月日数(ヨ)みつつ 

葦が散る 難波の御津に 真櫂しじぬき 朝凪に 水手(カコ)ととのへ 夕潮に 楫引き撓(ヲ)り

率(アド)もひて 漕ぎゆく君は 波の間を い行きさぐくみ 真幸(マサキ)くも 早く到りて

大王の 命(ミコト)のまにま 大夫(マスラヲ)の 心をもちて ありめぐり 事し終はらば 恙(ツツ)まはず 還り来ませと

斎瓮(イハヒヘ)を 床辺(トコヘ)に据ゑて 白栲の 袖折りかへし ぬば玉の 黒髪しきて

長き日(ケ)を 待ちかも恋ひむ 愛(ハ)しき妻らは (巻−4331・755年)

(元暦校本:天皇乃 等保能朝庭等 之良奴日 筑紫国波 安多麻毛流 …)

  (ネット訳:オオキミの 遠く離れた砦として しらぬいの 筑紫の国は 外敵を抑える城

お治めになっている 四方の国々には 人は満ち満ちているが 朝日美しい 東国(アヅマオトコ)は

勇んで 故郷を捨て 我が身をかえり見しない 勇猛な戦士であると オオキミはお誉めになるので オオキミの ご命令のままに

慈しむ母と別れ 若草のような 妻と枕を交わせず 過ぎて行く 年月を指折り数えながら

葦の花散る 難波の軍港から 大船の両舷に 櫂を並べ 朝凪の海に 水手を整え 夕潮に 櫂を引き撓め

かけ声に合わせて 漕ぎゆく君は 大波の間を 押し分けて進み 障(サワ)りなく 早々と築紫に到り 

オオキミの命令のままに おのこの心を持って 日々の見張りを続け 勤めが勤めが終わったら 恙(ツツガ)なく還って来てくださいと

神に捧げる瓶(ヘイ)を 床の間に据えて 白妙の着物の袖を折り返し 夜床に 黒髪を敷いて寝て

このさき 長い日々を 夫の帰還を 恋い焦がれて 待ち続けることであろう 愛しい その妻たちは。)

 

 返し歌

  ますらをの 靫(ユキ)取り負ひて 出でて行けば 別れを惜しみ 嘆きけむ妻 (4332番 大伴家持の歌)

(ネット訳:雄々しい男たちが 矢筒を背負い弓を携え 出征してきたときには 妻たちは別れを惜しんで さぞかし嘆いたことであろう

別れを惜しむ 妻たちの嘆きの涙を 矢筒ととみに 背負ってきた男たちよ 嗚呼。)

  鶏が鳴く 東壮士(アヅマオトコ)の 妻別れ 悲しくありけむ 年の緒長み (4333番 大伴家持の歌)

(ネット訳:崎守に出かける あづまの国の若者たちよ あなた方が妻と別れ故郷を後にして 還るまでの年月の長いことを思えば 悲しかった   

であろう。 今も悲しいであろう。)

    (補:大伴家持の防人法制に反対する抗戦歌?)

 

(7)放逸せる鷹を思ひて…作りし歌一首 (大伴家持が越の国の国司になって行ったとき作った歌)

   大君の 遠の朝廷そ み雪降る と名に負へる

 天離る 鄙にしあれば 山高み 河とほしろし 野をひろみ 草こそしげき… (巻17−4011)

(元暦校本:大王乃 等保能美可度曾 美雪落 越登名尓於蔽流 安麻射可流 …)

  (ネット訳:ここ、天皇陛下の統治される遠境の政庁は、「神聖な雪の降る越」という名を持つ、空遠く隔たった鄙の地であるので、山は高く川は雄大で

ある。野は広々と草は深く繁っている…)

(8)庭中の花を眺めて作りし歌一首(原文:庭中花作歌一首) (大伴家持)

   大君の 遠の朝廷と 任(マ)き給ふ 官(ツカサ)のまにま み雪降る に下り来 … (巻−4113)

(元暦校本:於保支見能 等保能美可等々 末支太末不 官乃末尓末 美由支布流 古之尓久多利来 …)

  (ネット訳:大君の遠く離れた政庁…。)

 

 

以上が、『万葉集』の例のすべてである。これから、「遠の朝廷」について次のことが言える。

1.大伴家持の詠んだ(7)(8)の二首だけが「越」と関係がある。

2.上の二首以外は、すべて「筑紫」に関係があるものとして使用されている

3.但し、「陸奥」・一般の「国衙」を指すものは一つもない。

 

その筑紫だが、『古事記』・『日本書紀』の「神代巻」は、この筑紫を中心として語られている。大国主の出雲に関する記事も多いが、畿内天皇家はその子孫とは称していない。天照大神の子孫と称している。これは何を意味しているのか。天皇家の祖先は、筑紫を中心とした世界に存在したということである。では、「越」の例があるのはなぜか。それは、家持が国司として赴任した越が、6世紀に即位した継体が、后を迎えて大和に入る前(豪族時代)に越前国の三国のある地(拠点)であったことと関係があるかも知れない。

次に、「ミカド」を「朝廷」と表記していることも注目すべきである。『万葉集』では「ミカド」は頻出し、「三門」「御門」と書かれることが多いが、天皇と皇子に使われていて、地方豪族には決して用いられてはいない。また、「朝廷」という言葉も、中国の『四書五経』や日本の『続日本紀』でも、「天子が政治をする所=中央の権力者が政治をする所」を指している。地方の政治権力を「朝廷」と呼ぶ例は恐らく一切ないであろう。とするならば、古代において筑紫が「朝廷」と呼ばれていたということは、筑紫こそが「天子が政治をする所」だったのではないだろうか。従って、8世紀の(5)(6)二首における「天皇の 遠の朝廷」も、「天皇の古い朝廷があった筑紫の国」という意味にとることができるのではないだろうか。

これは想像でしかなく証明できている訳ではないが、天皇家の源流は加耶→筑紫→日向→大和(越)にあった、と見ることができるのはないだろうか。それで、筑紫の神話を自分の祖先のものとして『記・紀』に記し、その統治の正当性を主張したと考えられる。

但し、天智・天武・元明・聖武天皇の祖先は、武烈の後の継体であるのだが??? (参照:古田武彦「大王之遠乃朝廷」)

 

 

 

2011.11.06

(京阪神から行く 旅と温泉HP)

随想「遠の朝廷」太宰府を想う(『万葉集』)No.2

 

(「遠の朝廷」についての「感想」の続き)

 

 「遠の朝廷」とは、大伴家持が「越」を詠んだ二首を除けば、すべて「筑紫」または「太宰府」に関係があるものとして使用されている、と言える。そこで、太宰府に関する歌も『万葉集』より抽出し、次に列挙しておこう。更に、海で繋がる難波などについても挙げておきたい。当然のことながら、かなりの数に上る。(訳は、インターネット上に公開されている先輩諸氏のものを参照している。)

 

【太宰府】

・防人司佑 大伴四綱の歌二首 より一首

  藤波の 花は盛りに なりにけり 平城の京を 思ほすや君 (巻3−330)

 (ネット訳:藤の花が波うって盛りになったなあ。奈良の都を恋しくお思いでしょうか。あなた。)

 

 

 

また、筑紫と海を通じて繋がっている吉備・難波などを詠んだ歌も、『万葉集』より以下に抽出し、当時の地域間の関係や人々の意識などを調べてみたい。

 

【難波】

・山上憶良が、大唐(モロコシ)に在りし時、本郷(クニ)憶(シヌ)ひて詠める歌

  いざ子ども 早く日本(ヤマト)へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ (巻−63)

 (ネット訳:さあ おまえ達よ 早く日本へ帰ろう。 発ってきた 大伴の 御津の浜松も 我らの帰還を待ち焦がれていることであろう。

 さあ 帰ろう ふるさと日本へ。)

・慶雲(キョウウン)三年(ミトセトイフトシ・706年)丙午(ヒノエウマ)、難波の宮に幸(イデマ)せる時の歌 (志貴皇子の歌)

  葦辺(アシヘ)ゆく 鴨の羽交(ハガヒ)に 霜降りて 寒き夕へは 大和し思ほゆ (巻−64)

 (ネット訳:ここ難波の 枯れ草の水辺を泳ぎゆく 鴨の羽根に 霜が置くほど 寒い夕べには 身も心もしばれて 大和がひとしお偲ばれてくる。)

・太上天皇(オホキスメラミコト)の難波の宮に幸(イデマ)せる時の歌 (置始東人(オキソメノアヅマヒト)の歌)

  大伴の 高師の浜の 松が根を 枕(マ)きて寝(ヌ)る夜は 家し偲はゆ (巻−66)

 (ネット訳:大伴の 高石の浜は 美しいけれど いくら美しくとも 松が根を 枕に寝る夜は 家のこと妻のことが偲ばれる。)

 (注:太上天皇は、持統天皇か文武天皇)

・大伴の 御津の浜なる 忘れ貝 家なる妹を 忘れて思へや (巻−68)

 (ネット訳:大伴の 御津の浜の 片貝よ忘れ貝よ お前を拾っても 家にいる妻を 忘れえもやらぬ 片貝よ忘れ貝よ。)

 

 

・大伴の 御津の浜辺を 打ちさらし 寄せ来る波の ゆくへ知らずも (巻−1151・詠み人不詳)

 (ネット訳:大伴の 御津の浜辺を えぐるように 寄せ来る波 この波はどこへ行ってしまうのか。御津の軍港(イクサミナト)へ集められた人々は 寄せ来る

波のように 去る波のように 崎守(サキモリ)となって 集まっては去ってゆく。)

 ・朝凪に 真楫漕ぎ出て 見つつ来し 御津の松原 波越しに見ゆ (巻−1185・詠み人不詳)

 (ネット訳:朝凪の海に 両舷の櫂で漕ぎ出て来て もう御津の松原は 波間にしか見えなくなった。遠ざかる松原よ 故郷に連なる御津の浜よ。)

・大伴の 御津の白波 あひだなく 吾(ア)が恋ふらくを 人の知らなくに (巻−2737・詠み人不詳)

 (ネット訳:大伴の 御津の浜辺に寄せては返す白波の 絶え間ないように 私は恋い焦がれているのに あの人はまるで知らない 薄情け。)

・好去好来(コウキョコウライ・無事の往還を祈る)歌一首、並びに短歌 (巻−894・733年山上憶良の大唐大使丹比(タジヒ)真人広成に捧げた歌)

  神代より 言ひ伝て来(ケ)らく

 そらみつ 倭(ヤマト)の国は 皇神(スメカミ)の 厳(イツク)しき国 言霊(コトタタマ)の 幸(サキ)はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり

今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 

人さはに 満ちてあれども 高光る 日の朝廷(ミカド) 神ながら 愛での盛りに 天の下 奏(マヲ)したまひし 家の子と 選びたまひて

大御言(オホミコト) 戴き持ちて 唐(モロコシ)の 遠き境に 遣はされ 罷りいませ 

海原の 辺(ヘ)にも沖にも 神づまり 領(うしは)きいます 諸々の 大御神たち 船の舳に 導きまをし

天地の 大御神たち 倭の 大国御霊(ミタマ) 久かたの 天(アマ)のみ空ゆ 天翔(アマガケ)り 見渡したまひ

事終わり 帰らむ日には 又更に 大御神たち 船の舳に 御手うち掛けて 墨縄を 延(ハ)へたるごとく

あぢおかし 値か嘉の崎より 大伴の 御津の浜びに 直(タダ)泊(は)てに 御船は泊てむ

障(ツツ)みなく 幸くいまして 早帰りませ

(ネット訳:神代の昔より 言い伝えて来たことがある。

この大和の国は 皇神の神の御霊の尊厳な国 言霊が 幸いをもたらす国と 語り継ぎ 言ひ継いできた。

このことは 今の世の人もことごとに 目のあたりに 見知っていますとも 

大和の国には 人が満ちているが その中から 畏れおおくも 日の御子 天皇は 神さながらに ご愛顧のままに あなた丹比真人広成様を

天下の政治をお執になった 名だたる家系の子として 大唐大使(モロコシニツカワスツカイノカミ)に お取り立てになったので

あなたは 勅旨を奉じて 遠い異国である唐へ 発たれることになりました。

そのご出発には 岸にも沖にも鎮座して 大海原を支配しておられる 諸々の大御神たちが 船の舳に立ってお導きになり 

天地の大御神たち 中でも大和の大国御霊は 天空を駆けめぐって お見渡しになり

任務を終えて お帰りになる日には 又更に 大御神たちは 船の舳に御手をうち掛けて お曳きになり 墨縄を張ったように 真っ直ぐに

長崎の五島列島の値嘉の崎より 難波の大伴の御津の浜辺へに 真一文字に 御乗船は到着するでしょう。

あ障りなく お早くお帰りなさいませ。

大唐大使 丹比真人広成様よ。

 返し歌

  大伴の 御津の松原 かき掃きて 我れ立ち待たむ 早帰りませ (895番 山上憶良の歌)

(ネット訳:大伴の 御津の松原 かき掃きて 我れ立ち待たむ 早帰りませ。)

  難波津に 御船泊てぬと 聞こえ来ば 紐解き放けて 立ち走りせむ (896番 山上憶良の歌)

(ネット訳:難波の津に お還りの御船が着いたと わかりましたら とるものもとりあえず帯紐を解き放って お迎えにすっ飛んで参りますよ。)

(補:「帯紐を解き放って」は奇妙な表現ですが、これは漢詩の「倒裳(トウショウ)」とかの歓迎の表現があたかららしい?)

 

・天平(テムヒャウ)五年(イツトセトイフトシ・733年)癸酉(ミズノトトリ)春閏三月(ノチノヤヨヒ)、笠朝臣金村が入唐使(モロコシニツカハスツカヒ)に贈れる歌一首、並びに 

短歌

  玉たすき 懸けぬ時なく 息の緒に 我が思(モ)ふ君は うつせみの 世の人なれば 

大王(オホキミ)の 命畏(ミコトカシコ)み 夕されば 鶴(タヅ)が妻呼ぶ 難波潟 御津の崎より 

大船に 真楫(マカジ)繁(シジ)貫(ヌ)き 白波の 高き荒海(アルミ)を 島伝ひ い別れ行かば 

留まれる 吾(アレ)は幣(ヌサ)ひき 斎(イハ)ひつつ 君をば待たむ 早帰りませ (巻−1453・笠金村の歌)

(ネット訳:心に懸けて思わぬ時なく 命の綱とも 思っているあなたは この世に 生きる人であれば 

大王の 仰せをかしこみ 夕べには 鶴が妻を呼んで鳴く 難波の 御津の港より 

唐へ渡る大船の 舷側いっぱいに櫂を取り付けて 白波たつ荒海を 島伝ひに唐へ発たれると 

後に残る私たちは 神に御幣を捧げ 潔斎して あなたのお帰りを待つのです。遣唐使の任務を終え 早くお帰りなさいませ。

丹比真人広成様よ。

(補:幣=「神の依り代」とされる紙。斎=身を慎み神を祭る。)

 返し歌

  波の上(ヘ)よ 見ゆる児島(コシマ)の 雲隠り あな息づかし 相別れなば (1454番 笠金村の歌)

(ネット訳:波の上に見える小島が 雲に隠れるように あなたの船が遙かに見えなくなったら 嗚呼 溜め息が出ることでしょう お別れの淋   

しさに。)

 

・天平八年(736年)に遣新羅使の出発の折りの歌三首。

(注:当時は新羅との外交関係は険悪な状況にあり、かつ疫病流行の中での嶮しい使節であった。)

  妹とありし 時はあれども 別れては 衣手寒き ものにぞありける (巻−3591・詠み人不詳)

(ネット訳:妻と一緒にいた 頃はそうとは思わなかったが こうして別れてくると 衣の袖のうら寂しいことよ

・海原に 浮寝せむ夜は 沖つ風 いたくな吹きそ 妹もあらなくに  (巻−3592・詠み人不詳)

(ネット訳:愛しい妻と別れて 海原に浮寝する夜は ひどくは吹かないでおくれ 海吹く風よ 心あらば

・大伴の 御津に船(フナ)乗り 漕ぎ出ては いづれの島に 庵(イホ)りせむ我れ  (巻−3593・詠み人不詳)

(ネット訳:大伴の御津で 船に乗りこんで 漕ぎ出したら どこのどの島で 船泊まりして宿りすることになろうか。この頼りなげな旅よ

 

【難波A】

・柿本朝臣人麻呂が覊旅(タビ)の歌

  御津の崎 波を恐(カシコ)み 隠江(コモリエ)の 船寄せつつ 野島(ヌシマ)の崎に (巻−249)

(ネット訳:難波の御津の崎に 打ち寄せる波を恐れて 風避けの入江に 隠れず ひたすら淡路の野島の崎へ 船は進み行く 我が運命の船は。)

・大蔵少輔(オホクラノスナキスケ)丹比屋主真人(タヂヒノヤヌシマヒト)が歌一首

  難波辺(ナニハヘ)に 人の行ければ 後れ居て 春菜摘む子を 見るが悲しさ (巻−1442)

(ネット訳:難波の方へ 夫が用役に行ってしまった後に 後に残された女は ひとり春菜摘む 誰に食べさせもしない 春菜摘む 

見る身にも淋しさつのる 春菜摘む子よ。)

・押し照る 難波の崎に 引き上る 赤(アケ)のそほ船 そほ船に 綱取り懸け 引こづらひ

 ありなみすれど 言ひづらひ ありなみすれど ありなみ得ずぞ 言はれにし我が身 (巻−3300・詠み人不詳)

(ネット訳:流れの速い 難波の崎の淀川を 曳き船する 朱塗り船 その朱塗り船に 綱を取りかけ 曳くに難儀するように 

あれやこれやと打ち消してみるのだが 言を左右にしてみても ごまかしきれないで とうとう世間の噂になってしまった

この我が身のことが 世間の噂になってしまったのよ。)

(注:そほ船=赤土で塗った船。)

・大君の 命畏み 蜻蛉島(アキヅシマ) 大和を過ぎて 大伴の 御津の浜辺ゆ

 大船に 真梶しじ貫(ヌ)き 朝凪に 水手(カコ)の声しつつ 夕凪に 梶の音(ト)しつつ

 行きし君 いつ来まさむと 占(ウラ)置きて 斎(イハ)ひ渡る 狂言(たはこと)や 人の言ひつる

 我が心 筑紫の山の もみぢ葉の 散り過ぎにしと 君が正香(タダカ)を (巻−3333・詠み人不詳)

(ネット訳:大王の仰せを敬い 日の本の大和を出でて 大伴の御津の浜辺から

 大船に櫂を連ね 朝凪に水手の掛け声高く 夕凪に梶音もにぎやかに

 船出して行った君が いつ還り来られるかと 幣(ヌサ)奉り 潔斎してきたのに たはこと(虚言)を人は言ったのか

遙かな筑紫の山の もみぢ葉が散り過ぎるように 散ってしまったという

この世の君は あの世に行ってしまったという たはこと(虚言)であってほしい 君が散ってしまったなんて。)

 

 

2011.12.18

(京阪神から行く 旅と温泉HP)

随想「遠の朝廷」太宰府を想う(『万葉集』入門))No.3

 

(このNo.2は、前回11.06の内容と全く同じで、ただ歌に順番を昇順に並べ替えただけである。)

 

 「遠の朝廷」とは、大伴家持が「越」を詠んだ二首を除けば、すべて「筑紫」または「太宰府」に関係があるものとして使用されている、と言える。そこで、太宰府に関する歌も『万葉集』より抽出し、更に海で繋がる難波などについても、次に列挙しておこう。当然のことながら、かなりの数に上る。(訳は、インターネット上に公開されている先輩諸氏のものを参照している。)

 

【太宰府】

・防人司佑 大伴四綱の歌二首 より一首

  藤波の 花は盛りに なりにけり 平城の京を 思ほすや君 (巻3−330)

 (ネット訳:藤の花が波うって盛りになったなあ。奈良の都を恋しくお思いでしょうか。あなた。)

 

 

 

また、筑紫と海を通じて繋がっている吉備・難波などを詠んだ歌も、『万葉集』より以下に抽出し、当時の地域間の関係や人々の意識などを調べてみたい。

 

【難波】

 

・山上憶良が、大唐(モロコシ)に在りし時、本郷(クニ)憶(シヌ)ひて詠める歌

  いざ子ども 早く日本(ヤマト)へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ (巻−63)

 (ネット訳:さあ おまえ達よ 早く日本へ帰ろう。 発ってきた 大伴の 御津の浜松も 我らの帰還を待ち焦がれていることであろう。

 さあ 帰ろう ふるさと日本へ。)

・慶雲(キョウウン)三年(ミトセトイフトシ・706年)丙午(ヒノエウマ)、難波の宮に幸(イデマ)せる時の歌 (志貴皇子の歌)

  葦辺(アシヘ)ゆく 鴨の羽交(ハガヒ)に 霜降りて 寒き夕へは 大和し思ほゆ (巻−64)

 (ネット訳:ここ難波の 枯れ草の水辺を泳ぎゆく 鴨の羽根に 霜が置くほど 寒い夕べには 身も心もしばれて 大和がひとしお偲ばれてくる。)

・太上天皇(オホキスメラミコト)の難波の宮に幸(イデマ)せる時の歌 (置始東人(オキソメノアヅマヒト)の歌)

  大伴の 高師の浜の 松が根を 枕(マ)きて寝(ヌ)る夜は 家し偲はゆ (巻−66)

 (ネット訳:大伴の 高石の浜は 美しいけれど いくら美しくとも 松が根を 枕に寝る夜は 家のこと妻のことが偲ばれる。)

 (注:太上天皇は、持統天皇か文武天皇)

・大伴の 御津の浜なる 忘れ貝 家なる妹を 忘れて思へや (巻−68)

 (ネット訳:大伴の 御津の浜の 片貝よ忘れ貝よ お前を拾っても 家にいる妻を 忘れえもやらぬ 片貝よ忘れ貝よ。)

 

 

・柿本朝臣人麻呂が覊旅(タビ)の歌

  御津の崎 波を恐(カシコ)み 隠江(コモリエ)の 船寄せつつ 野島(ヌシマ)の崎に (巻−249)

(ネット訳:難波の御津の崎に 打ち寄せる波を恐れて 風避けの入江に 隠れず ひたすら淡路の野島の崎へ 船は進み行く 我が運命の船は。)

 

 

・好去好来(コウキョコウライ・無事の往還を祈る)歌一首、並びに短歌 (巻−894・733年山上憶良の大唐大使丹比(タジヒ)真人広成に捧げた歌)

  神代より 言ひ伝て来(ケ)らく

 そらみつ 倭(ヤマト)の国は 皇神(スメカミ)の 厳(イツク)しき国 言霊(コトタタマ)の 幸(サキ)はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり

今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 

人さはに 満ちてあれども 高光る 日の朝廷(ミカド) 神ながら 愛での盛りに 天の下 奏(マヲ)したまひし 家の子と 選びたまひて

大御言(オホミコト) 戴き持ちて 唐(モロコシ)の 遠き境に 遣はされ 罷りいませ 

海原の 辺(ヘ)にも沖にも 神づまり 領(うしは)きいます 諸々の 大御神たち 船の舳に 導きまをし

天地の 大御神たち 倭の 大国御霊(ミタマ) 久かたの 天(アマ)のみ空ゆ 天翔(アマガケ)り 見渡したまひ

事終わり 帰らむ日には 又更に 大御神たち 船の舳に 御手うち掛けて 墨縄を 延(ハ)へたるごとく

あぢおかし 値か嘉の崎より 大伴の 御津の浜びに 直(タダ)泊(は)てに 御船は泊てむ

障(ツツ)みなく 幸くいまして 早帰りませ

(ネット訳:神代の昔より 言い伝えて来たことがある。

この大和の国は 皇神の神の御霊の尊厳な国 言霊が 幸いをもたらす国と 語り継ぎ 言ひ継いできた。

このことは 今の世の人もことごとに 目のあたりに 見知っていますとも 

大和の国には 人が満ちているが その中から 畏れおおくも 日の御子 天皇は 神さながらに ご愛顧のままに あなた丹比真人広成様を

天下の政治をお執になった 名だたる家系の子として 大唐大使(モロコシニツカワスツカイノカミ)に お取り立てになったので

あなたは 勅旨を奉じて 遠い異国である唐へ 発たれることになりました。

そのご出発には 岸にも沖にも鎮座して 大海原を支配しておられる 諸々の大御神たちが 船の舳に立ってお導きになり 

天地の大御神たち 中でも大和の大国御霊は 天空を駆けめぐって お見渡しになり

任務を終えて お帰りになる日には 又更に 大御神たちは 船の舳に御手をうち掛けて お曳きになり 墨縄を張ったように 真っ直ぐに

長崎の五島列島の値嘉の崎より 難波の大伴の御津の浜辺へに 真一文字に 御乗船は到着するでしょう。

あ障りなく お早くお帰りなさいませ。

大唐大使 丹比真人広成様よ。

(注:山上憶良宅に挨拶に訪れた遣唐大使・丹比広成に贈った、往来の無事であることを祈る歌。)

 返し歌

  大伴の 御津の松原 かき掃きて 我れ立ち待たむ 早帰りませ (895番 山上憶良の歌)

(ネット訳:大伴の 御津の松原を 掃き清めて 私はそこに立って待っていましょう 早くお帰り下さいますよう。)

(参考:遣唐使に餞別に贈った歌。大伴の御津=大阪湾にあった大伴氏所領の港、難波港。)

(原文→訓読(仮名)→訳→参考(注))

 難波津に 御船泊てぬと 聞こえ来ば 紐解き放けて 立ち走りせむ (896番 山上憶良の歌)

(ネット訳:難波の津に お還りの御船が着いたと わかりましたら とるものもとりあえず帯紐を解き放って お迎えにすっ飛んで参りますよ。)

(補:「帯紐を解き放って」は奇妙な表現ですが、これは漢詩の「倒裳(トウショウ)」とかの歓迎の表現があたかららしい?)

 

 

・大伴の 御津の浜辺を 打ちさらし 寄せ来る波の ゆくへ知らずも (巻−1151・詠み人不詳)

 (ネット訳:大伴の 御津の浜辺を えぐるように 寄せ来る波 この波はどこへ行ってしまうのか。御津の軍港(イクサミナト)へ集められた人々は 寄せ来る

波のように 去る波のように 崎守(サキモリ)となって 集まっては去ってゆく。)

 ・朝凪に 真楫漕ぎ出て 見つつ来し 御津の松原 波越しに見ゆ (巻−1185・詠み人不詳)

 (ネット訳:朝凪の海に 両舷の櫂で漕ぎ出て来て もう御津の松原は 波間にしか見えなくなった。遠ざかる松原よ 故郷に連なる御津の浜よ。)

 

 

・大蔵少輔(オホクラノスナキスケ)丹比屋主真人(タヂヒノヤヌシマヒト)が歌一首

  難波辺(ナニハヘ)に 人の行ければ 後れ居て 春菜摘む子を 見るが悲しさ (巻−1442)

(ネット訳:難波の方へ 夫が用役に行ってしまった後に 後に残された女は ひとり春菜摘む 誰に食べさせもしない 春菜摘む 

見る身にも淋しさつのる 春菜摘む子よ。)

 

 

・天平(テムヒャウ)五年(イツトセトイフトシ・733年)癸酉(ミズノトトリ)春閏三月(ノチノヤヨヒ)、笠朝臣金村が入唐使(モロコシニツカハスツカヒ)に贈れる歌一首、並びに 

短歌

  玉たすき 懸けぬ時なく 息の緒に 我が思(モ)ふ君は うつせみの 世の人なれば 

大王(オホキミ)の 命畏(ミコトカシコ)み 夕されば 鶴(タヅ)が妻呼ぶ 難波潟 御津の崎より 

大船に 真楫(マカジ)繁(シジ)貫(ヌ)き 白波の 高き荒海(アルミ)を 島伝ひ い別れ行かば 

留まれる 吾(アレ)は幣(ヌサ)ひき 斎(イハ)ひつつ 君をば待たむ 早帰りませ (巻−1453・笠金村の歌)

 

(ネット訳:心に懸けて思わぬ時なく 命の綱とも 思っているあなたは この世に 生きる人であれば 

大王の 仰せをかしこみ 夕べには 鶴が妻を呼んで鳴く 難波の 御津の港より 

唐へ渡る大船の 舷側いっぱいに櫂を取り付けて 白波たつ荒海を 島伝ひに唐へ発たれると 

後に残る私たちは 神に御幣を捧げ 潔斎して あなたのお帰りを待つのです。遣唐使の任務を終え 早くお帰りなさいませ。

丹比真人広成様よ。

(補:幣=「神の依り代」とされる紙。斎=身を慎み神を祭る。)

 返し歌

  波の上(ヘ)よ 見ゆる児島(コシマ)の 雲隠り あな息づかし 相別れなば (1454番 笠金村の歌)

(ネット訳:波の上に見える小島が 雲に隠れるように あなたの船が遙かに見えなくなったら 嗚呼 溜め息が出ることでしょう お別れの淋   

しさに。)

 

 

・大伴の 御津の白波 あひだなく 吾(ア)が恋ふらくを 人の知らなくに (巻−2737・詠み人不詳)

 (ネット訳:大伴の 御津の浜辺に寄せては返す白波の 絶え間ないように 私は恋い焦がれているのに あの人はまるで知らない 薄情け。)

 

 

・難波潟 漕ぎづ(出)る船の はろばろに 別れ来ぬれど 忘れかねつも (巻−3171・詠み人不詳)

 (ネット訳:難波の御津から 漕ぎ出た乗船は はるばると遠ざかってきたが こんなに遙かに遠ざかっても 別れ来た 妻のことが忘れられない 故 

郷に残してきた妻よ 愛しの妻よ。)

 

 

・押し照る 難波の崎に 引き上る 赤(アケ)のそほ船 そほ船に 綱取り懸け 引こづらひ

 ありなみすれど 言ひづらひ ありなみすれど ありなみ得ずぞ 言はれにし我が身 (巻−3300・詠み人不詳)

(ネット訳:流れの速い 難波の崎の淀川を 曳き船する 朱塗り船 その朱塗り船に 綱を取りかけ 曳くに難儀するように 

あれやこれやと打ち消してみるのだが 言を左右にしてみても ごまかしきれないで とうとう世間の噂になってしまった

この我が身のことが 世間の噂になってしまったのよ。)

(注:そほ船=赤土で塗った船。)

・大君の 命畏み 蜻蛉島(アキヅシマ) 大和を過ぎて 大伴の 御津の浜辺ゆ

 大船に 真梶しじ貫(ヌ)き 朝凪に 水手(カコ)の声しつつ 夕凪に 梶の音(ト)しつつ

 行きし君 いつ来まさむと 占(ウラ)置きて 斎(イハ)ひ渡る 狂言(たはこと)や 人の言ひつる

 我が心 筑紫の山の もみぢ葉の 散り過ぎにしと 君が正香(タダカ)を (巻−3333・詠み人不詳)

(ネット訳:大王の仰せを敬い 日の本の大和を出でて 大伴の御津の浜辺から

 大船に櫂を連ね 朝凪に水手の掛け声高く 夕凪に梶音もにぎやかに

 船出して行った君が いつ還り来られるかと 幣(ヌサ)奉り 潔斎してきたのに たはこと(虚言)を人は言ったのか

遙かな筑紫の山の もみぢ葉が散り過ぎるように 散ってしまったという

この世の君は あの世に行ってしまったという たはこと(虚言)であってほしい 君が散ってしまったなんて。)

 

 

・天平八年(736年)に遣新羅使の出発の折りの歌三首。

(注:当時は新羅との外交関係は険悪な状況にあり、かつ疫病流行の中での嶮しい使節であった。)

  妹とありし 時はあれども 別れては 衣手寒き ものにぞありける (巻−3591・詠み人不詳)

(ネット訳:妻と一緒にいた 頃はそうとは思わなかったが こうして別れてくると 衣の袖のうら寂しいことよ

・海原に 浮寝せむ夜は 沖つ風 いたくな吹きそ 妹もあらなくに  (巻−3592・詠み人不詳)

(ネット訳:愛しい妻と別れて 海原に浮寝する夜は ひどくは吹かないでおくれ 海吹く風よ 心あらば

・大伴の 御津に船(フナ)乗り 漕ぎ出ては いづれの島に 庵(イホ)りせむ我れ  (巻−3593・詠み人不詳)

(ネット訳:大伴の御津で 船に乗りこんで 漕ぎ出したら どこのどの島で 船泊まりして宿りすることになろうか。この頼りなげな旅よ

 

 

・防人の非別(ワカレ)の情(ココロ)を陳ぶる歌一首、また短歌

  大王の 任(マケ)のまにまに 島守(シマモリ)に 我が発ち来れば

 ははそ葉の 母の命(ミコト)は 御裳(ミモ)の裾 摘み上げ掻き撫で 父の命(ミコト)は 栲綱(タクヅヌ)の 白髭の上ゆ 涙垂り 嘆きのたばく

 鹿子(カコ)じもの ただ独りして 朝戸出の 愛(カナ)しき吾(ア)が子 あら玉の 年の緒長く 相見ずば 恋しくあるべし 

 今日だにも 言問(コトドヒ)せむと 

惜しみつつ 悲しびいませば

若草の 妻も子どもも をちこちに さはに囲み居 春鳥の 声のさまよひ 白栲の 袖泣き濡らし

たづさはり 別れかてにと 引き留め 慕ひしものを

天君(オホキミ)の 命(ミコト)かしこみ 玉ほこの 道に出で立ち 

岡の崎 い廻(タム)むるごとに 万(ヨロズ)たび かへり見しつつ 

はろばろに 別れし来れば 思ふそら 安くもあらず 恋ふるそら 苦しきものを 

うつせみの 世の人なれば 玉きはる 命も知らず 海原の 恐(カシコ)き道を 島伝ひ い漕ぎ渡りて あり巡り 吾(ア)が来るまでに

平らけく 親はいまさね つつみなく 妻は待たせと 住吉(スミノエ)の 吾(ア)が統め神(スメカミ)に 幣(ヌサ)まつり 祈り申(マウ)して

難波津に 船を浮け据ゑ 八十楫(ヤソカ)貫(ヌ)き 水手(カコ)ととのへて 朝開き 我(ワ)は榜ぎ出ぬと 家に告げこそ

(巻−4408・755年、大伴家持の歌)

(ネット訳:大王の 仰せのままに 防人に 私が出発しようとすると 

母上は 御裳の裾を摘み上げて 私の頭を撫で 父上は 真っ白な髭に涙を垂れ こもごもに嘆きおっしゃることに

「鹿の子のように 一人子なのに 朝だちしてゆく 我が子よ 年月長く 逢えなかったら 恋しみたえられない 

と、今日だけでも ゆっくりと話をしよう」

と、別れを惜しみつつ 悲しまれると

妻も子どもも あちらからこちらから 私を取り囲み 春鳥のように せつなく 白い着物の袖を濡らして泣いて

手にすがって泣いて 別れが辛いと引き留め 追いすがってきたけれど 

オホキミのご命令をかしこみ 旅立ってきたが 岡の出鼻を廻るごとに 何度も振り返り 振り返り 振り返りしながら はろばると 別れ来ると  

心安らかでなく 恋い慕う心も苦しく 生身の この世に生きる身なれば 我の命も 人の命も はかりがたいとはいえ 

大海原の 恐ろしい海路を 島伝いに 漕ぎ渡り 旅路から旅路へと巡りまわり 

私が帰る時まで 両親は無事であってほしいと 妻は達者で待っていてほしいと 住吉の海(ワダツミ)の神に 幣(ヌサ)を捧げ 祈り申して

難波の津から 船を浮かべて 櫂を揃えて 水手(カコ)をととのへて 朝早く 我れは漕ぎ出たと 家に告げてください

住吉の神よ わだつみの神よ)

 

返し歌

家人(イヘビト)の 齋(イハ)へにかあらむ 平らけく 船出はしぬと 親に申さね (4409番・大伴家持)

 (訳:家のみんなが 潔斎して祈ってくれたお陰か 無事に難波の津から 船出したと 父母に告げてください 無事に船出したと)

み空行く 雲も使と 人は言へど 家苞(イヘヅト)遣らむ たづき知らずも (4410番・大伴家持)

 (訳:大空を行く雲も 故郷への使だと 人は言うけれど 家へのみやげを送る すべは知らず)