left★原文・現代語訳★
百首歌の中に忍ぶ恋を 式子内親王
=(後鳥羽院が主催した)百首歌の(歌合の)中で
忍ぶ恋を(題として与えられて)詠んだ(歌)
玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
忍ぶることの 弱りもぞする
(巻十一 恋歌一1034)
=(玉の緒のような)私の命よ、絶えてしまうならば
絶えてしまえ。(このまま)生き長らえていると、
(恋を胸に秘めて)耐え忍ぶ心が、弱まって(抑え
きれなくなり、この恋が誰かに知られて)しまうと
いけないから。
〈成立日時〉
〈主題〉(感動の中心・心情)
たとえ死んでしまってもよいから、
この<胸に秘めた恋を誰にも知られまい>
という激情を詠い上げる。
〈鑑賞〉(感想・補足)
・(修辞法)二句切れ、縁語
・「小倉百人一首」の第89首目に収録されている歌
・死んでしまっても構わないから、胸中に秘めた忍ぶ
恋が世間に露見することがないように、という女性
の抑えた強烈な恋の激情を情熱的に詠い上げた歌。
・前半の激しさと、後半の不安げな口調が対照的で、
世間に知られまいとする「忍ぶ恋」の苦悩と複雑な
胸中が表現されている。
・賀茂神社の斎院を10年間務めて、晩年は出家する
という、恋を禁じられる身で生涯独身を貫いた。
そんな厳しい禁忌の下で恋を実らせることはなく、
感情を抑えきれずに恋の歌を詠んだのではないか。
恋ができない実生活から生まれたものでなく、歌と
いう虚構の世界の中では恋の自由が得られたから、
「忍ぶ恋」を詠んだ歌を多く残しているのだろう。
恋の相手は架空の人物なのではないだろうか?
・しかし、藤原俊成に歌を学ぶ縁で、息子の定家とは
親交があり、式子より13歳ほど年下であったが、
この藤原定家が秘めた恋の相手ではないかという説
もあるそうだ。
定家の日記『明月記』にも式子に関する記事が複数
あり、両者は深い関係だった可能性もある。
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right★補足・文法★
・百首歌=百首で一組になるように構成を整えて歌を
詠んだもの。これは、後鳥羽上皇の歌合に
参加した際に「忍ぶ恋」を詠ったもの。
・玉の緒=首飾りの玉を貫く紐。
魂を身体に繋いでおく緒→命(そのもの)
→玉の緒()よ(呼びかけ、間投助詞)=私の命よ
※「絶え」「ながらへ」「弱り」は、「緒」の縁語
・絶え(ヤ下二)な(完了)ば()絶え()ね(完了)
・忍ぶる(バ上二)弱り()も(係助)ぞ(係助)する(サ変)
=弱まるといけないから
→もぞ(もこそ)=…すると困る(将来への不安)

式子内親王「玉の緒よ…」(YouTube 解説)
コレルリ「ソナタト短調」
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