left★原文・現代語訳★
【三】<出家の機縁に感謝する妻>
やや程経て、涙をおさへて言ふやう、「君心を起こし
て出で給ひし後、何となく住み疲れて、宵ごとの鐘の
音もそぞろに涙をもよほし、暁の鳥の音もいたく身に
しみて、あはれのみまさり侍りしかば、過ぎぬる弥生
のころ、頭おろしてかくまかりなれり。
=しばらく時間が経って、(女が)涙を抑えて言うこ
とには、
「貴方が仏の道に志して出家をなさった後は、何と
なく(俗世に)住むのがつらくて、宵にいつも鳴る
鐘の音も訳もなく涙をもよほし、夜明け前の鶏の声
もとても心に染みて、しみじみとした悲しみばかり
が募ってきましたので、去る三月の頃、剃髪して、
このように(尼と)なったのです。
一人の娘をば、母方のをばなる人のもとにあづけ置きて
、高野の奥天野(アマノ)の別所に住み侍るなり。
=一人の娘は、母方の叔母に当たる人のもとに預けて
置いて、(私は)高野山の奥天野の別所に住んでい
るのです。
さてもまた、我を避けていかなる人にも馴れ給はば、
よしなき恨みは侍りなまし。
=それにしてもまた、(貴方がもしも)私(のこと)
を避けて、どのような女性にでも馴れ親しんでいら
っしゃったならば、つまらない恨みもきっとあった
でしょうのに。
これはまことの道に赴き給ふめれば、つゆばかりの恨
み侍らず。かへりて知識となり給ふなれば、嬉しくこ
そ。
=(しかし)これは(貴方が仏道に帰依するという)
真の道に進みなさったようですので、ほんの僅かの
恨みもありません。むしろ正しく教え導いてくれる
指導者(僧)とおなりになったようなので、嬉しく
思います。
別れ奉りし時は、浄土の再会をとこそ期(ゴ)し侍り
しに、思はざるに見つる夢とこそ覚ゆれ」とて、涙せ
きかね侍りしかば、
=(貴方に)お別れした時は、(今度会うのは)あの
世(浄土)での再会をと覚悟していましたのに、思
いがけず見た夢(のようだ)と思われます」と言っ
て、(尼は)涙を抑えきれない様子でしたので、
さま変へける事の嬉しく、恨みを残さざりけむことの
喜ばしさに、そぞろに涙を流し侍りき。
=(妻も)出家した事が嬉しく、(更に)恨みを残さ
なかったという事も喜ばしくて、訳もなく涙を流し
ました。
さてあるべきならねば、さるべき法文(ホウモン)など言
ひ教へて、高野の別所へ尋ね行かむと契りて、別れ侍
りき。
=(しかし)そうしている訳にも行かないので、然る
べき経文などを言って教えて、高野の別所へ訪ねて
行こうと約束して、別れました。
▼〈まとめ〉
出家の機縁となったことで、妻は夫に感謝した。
|
|
right★補足・文法★
・帰依=神仏や高僧を信じてその力にすがること
・露ほどの=ほおの僅かの
・知識=正しく教え導いてくれる指導者・僧。
善知識。正しい導きとなる機縁・きっかけ
※日本の古代仏教では、女性は、仏道を求める僧にと
って最大の障害であるとして、学問と修行を旨とす
る比叡山や高野山などは女性の立ち入りを拒絶して
いました。女性は高野山には入れなかった
→別所というのは、極楽往生を願う修行者や念仏聖な
どが大寺院から離れて草庵などを結んでいる所を指
しますが、「女人禁制」の高野山に入れないので、
この尼は「天野の別所」に住んでいた
|
|