left★原文・現代語訳★
「古文現代語訳ノート」(普通クラス)
   松尾芭蕉「奥の細道/平泉」

〈作品〉
〇成立 元禄7年(1694年 江戸時代中期)完成
 刊行 元禄15年
〇作者 松尾芭蕉
〇紀行文
 →1689年3月、門人の曾良を伴い、江戸〜東北
  〜北陸を巡って大垣に
至り、9月に伊勢に向けて
  出立するまでを記す(芭蕉46才、曽良41才)

〈概要〉
〇平安末期、奥州藤原氏は3代100年に亘って繁栄
 するも、源頼朝に滅亡させられることになったが、
 500年後、芭蕉は中尊寺金色堂だけに当時の繁栄  の面影を残す平泉を訪れて、史実を回想しながら、  悠久なる自然に対する人事の儚さへの感慨を記す
                   (→要旨)

〈全体の構成〉 (→要約→要旨)

【一】の@<平泉の儚い三代の栄華>

三代の栄耀一睡のうちにして、大門の 跡は一里こなたにあり。
=(平安時代、平泉で清衡・基衡・秀衡と)三代(に  亘って栄えた藤原氏)の栄華もひと眠りの間に見た  夢のようにはかなく消えて、(その藤原氏の館の)  大門の跡は一里こちら側にある。

秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。
=(三代目)秀衡(の館)の跡は田や野原になってい  て、(平泉鎮護のために金の鶏を山頂に埋めて築い  たという)金鶏山だけが(昔の)形を残している。

【一】のA<高館からの眺望と歴史>

まづ<高館(たかだち)に登れば>、北上川南部より 流るる大河なり。
=先ず(源義経が居館にしていたという)高館に登る  と、北上川(が眼下に見える。これ)は(北側の)  南部(氏の領地)から流れてくる大河である。

衣川(ころもがわ)は、和泉が城をめぐりて、高館の 下(もと)にて大河に落ち入る。
=(北側に見える)衣川は、(北西にある)和泉の城  の周りを巡って(流れ)、(この)高館の下で大河  (の北上川)に流れ込んでいる。

泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、 夷(えぞ)を防ぐと見えたり。
=(三代目・秀衡の二男で、源頼朝に内通して義経を  裏切り襲撃して自害に追い込んだ)泰衡たち(藤原  一族)の旧邸(伽羅御所)の跡は、(西側近くの)  衣が関を間に置いて、南部氏の領地への出入り口を  固く守り、夷(の侵入)を防いでいたと思われた。

【一】のB<義経たち人事の儚さと悠久なる自然>

さても、義臣すぐつてこの城(じやう)にこもり、功 名一時の叢(くさむら)となる。
=それにしても、(義経は)忠義の家臣を選りすぐっ  てこの城(高館)に立てこもり(戦ったが)、功名  は一時のことで(今は)草むらとなっている。

「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」
=(戦で)国都が破壊されても、山や川は(昔のまま  変わらずに)あり、(荒廃した)城にも春がやって  来て草木が青々と生い茂っている

と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。
=と(杜甫が詠んだ句を胸に、)笠を敷いて(腰を下  ろし)、長い間涙を流していました。

夏草や|  兵(つはもの)どもが   夢の跡
=(今)夏草(だけ)が生い茂っていることだなあ。  (昔)侍たちの(功名を)夢見(て戦っ)た跡(で  あるが、全ては儚く消え去ってしまい、他には何も  ないこと)だなあ

卯の花に   兼房見ゆる   白毛かな   曾良
=(白く咲き乱れる)卯の花を見ると、(昔、白髪を  乱して奮戦し、義経の最期を見届けたという)兼房  (の面影)が思い浮かんでくる(そんな)白髪(に  見えること)だなあ            曾良

【二】<当時の面影を残す金色堂>

かねて耳驚かしたる二堂開帳す。
=以前から(噂を)聞いて驚いていた二堂が開かれて  いた。

経堂(きゃうだう)は三将の像を残し、<光堂>(ひ かりどう)は三代の棺(ひつぎ)を納め、三尊の仏を安置 す。
=経堂は(清衡・基衡・秀衡)三人の武将像を残して  いて、光堂は(その)三代の棺を納め、三尊の仏像  を安置している。

七宝(しつぱう)散りうせて、珠(たま)の扉風に破 れ、金(こがね)の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚の 叢となるべきを、
=(光堂を飾っていた金銀などの)七宝は散り失せて  なくなり、珠で飾った扉は風で壊れ、金箔を貼った  柱は霜や雪で朽ちて、もう少しで崩れ荒れ果てて何  もない草むらとなるはずであるのを、

四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨をしのぐ。
=(後世の人たちが)四方を新しく囲んで、屋根瓦を  覆って雨風を耐え忍ぶ(防ぐようにしてある)。

しばらく千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれ り。
=(これによって)暫くの間は(遠い)千年の(昔を  偲ぶ)記念物となっているのである。

五月雨の   降り残してや|   光堂
=(長い年月の間)五月雨が(ここは避けて)降らな  かったのであろうか。(辺りは雨で朽ちているが、  ここだけは遠い昔の光輝く姿を今にも残している)  金色堂だなあ


  春望    杜甫
  
   春望
   =春の眺望


国破山河在    城春草木深     (←対句)

 国破れて山河在り    城春にして草木深し
 =国都長安は(戦乱で)破壊されてしまったが、
 (自然の)山や河は(昔のまま変わらずに)あり、
 (荒廃した)城内にも春がやって来て、
  草木が深く生い茂っている(が、人陰はない)。

感時花濺涙    恨別鳥驚心     (←対句)

 時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ
 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
 =(このいたましい)時世(を心)に感じては、
  (見て快い筈の)花を見ても涙を流してしまい、
  (家族との)別れを恨めしく思っては、
  (心慰む筈の)鳥(の声)にも心を驚かされる。

烽火連三月    家書抵萬金     (←対句)

 烽火三月に連なり    家書萬金に抵る
 =(戦火を告げる)狼煙(のろし)は
  三ヶ月もの(長い)間あ、上がり続き、
  (家族からの)手紙はなかなか届かないので、
  (何万もの)金に相当するほど貴重に思われる。

白頭掻更短    渾欲不勝簪

 白頭掻(か)けば更に短く
 渾(す)べて簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す
 =(年をとり、白くなった)白髪頭は
  かくと(心労の為に)更に毛も短くなっていて、
  (役人が頭に付ける冠を止めるための)簪も、
  全く髪に挿せないほどになってしまったことだ。
right★補足・文法★
(紀行文)2019年5月(7月改)


〈作者〉
・1644〜1694年
・伊賀国上野の生まれ
・仕えた主君の縁で俳諧に親しむ
・20代終わり、江戸に下って俳人と交わり、
 37歳、深川に隠棲、しばしば旅に出る
・(辞世の句)旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る
<俳諧を芸術として確立>
・著作 他に『笈の小文』『野ざらし紀行』など

・1100年代

・3代藤原秀衡が逃げてきた源義経をかくまった事が
 発端で、義経は裏切った泰衡に襲撃されて自害し、
 藤原氏も源頼朝に攻められて滅ぼされることとなる






・三代の栄耀=(平安時代、奥州平泉で清衡・基衡・  秀衡の)<三代に渡って栄えた藤原氏の栄華>
・一睡のうちにして=ひと眠りの(間に見た)
 夢のようにはかなく
消えて
 →中国の故事「黄梁一炊の夢」(若者が宿で出世す   るを見たが、覚めてみるとそれはまだ粟が煮え   ないほどの短い間のことであった)による
・大門=藤原氏(三代)の館の正門(大門)
・金鶏山=秀衡が平泉鎮護のために築いた山
     金の鶏を山頂に埋めたという




・高館=源義経の居館跡。藤原泰衡に襲撃され、
    ここで自害(1189年、30歳)
・南部=南部氏の領地。岩手県盛岡市の辺り



・和泉が城=秀衡の三男、和泉三郎忠衡の城。
      泰衡に反し、義経を護ろうとする




・泰衡=秀衡の次男。義経を裏切り源頼朝に内通した
・衣が関=高館の近くにあった古い関








・義臣=忠義の家臣たち
・功名=手柄を立てて、名をあげること




・国破れて山河あり=中国の杜甫の詩「春望」を引用




・時移る=長い時間が経過する・世が移り変わる



・初句切れ  ・季語→夏草
 →「や」=感動・詠嘆(…だなあ)
悠久なる自然に対しての、人事の儚さへの感慨



・卯の花=うつぎで、初夏に白い花が咲く。夏の季語
・兼房=源義経の臣。高館が攻められた時、最後まで     白髪を振り乱して戦って討ち死にした老将。     卯の花の白さが兼房の白髪を連想させる
・曾良=松尾芭蕉の門人(河合曾良)。
    『奥の細道』の旅に同行


・二堂=中尊寺の経堂と光堂



・三将=藤原清衡・基衡・秀衡の三将
・光堂=清衡が創建した金色堂
    四面に金箔が貼られていた
・三尊=阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至観音



・七宝=金・銀・瑪瑙・珊瑚など、七種の宝
・頽廃=(建物などが)崩れ荒れる、衰え廃ること






・四面新たに囲みて…=後世、光堂を覆うために鞘堂  が造られ、後にも更に修復された







・二句切れ  ・季語→五月雨
☆高館と金色堂におけるしみじみとした感慨





〈作者…補足〉(→参考資料)
712〜770(盛唐)、李白とともに唐代最高の詩人。
湖北省襄陽県の人であるが、洛陽に近い河南省鞏県で 生まれた。三十五歳ころまで、呉・越・斉・趙の間を 遊歴、この間に李白、高適と交わり、詩を賦したりし ている。役人として職に就いたり、解かれたり、左遷 されたり、また戦争に巻き込まれたりもした。
760年、剣南節度使の厳武に見出され、四川省成都 の郊外に草堂を建てて住んだ。この時期は杜甫の一生 の内で比較的平穏な時期であった。
765年厳武が死に、蜀の地が乱れた為、また貧と病 に苦しみながら、四川・湖北・湖南の地を流浪して、 770年湖南省耒陽県で不遇のうちに生涯を終えた。

〈解説〉
757年(作者46歳)、国都の長安が荒廃した様を
見て詠った作品。
前半は、変化する人の世と悠久の自然という眼前の景
の対比による感慨を詠み、
後半は、国を憂い妻子を思う心労によって急に衰えた
我が身への嘆きを詠んで、結んでいる。


















貴方は人目の訪問者です。