left★板書★
「現代文授業ノート」(普通クラス)
尼ケ崎 彬「日本のレトリック
/言葉の切り開く世界」
〈作品=「日本のレトリック」〉
〇日本に古来から伝わる表現技法を通し、
日本人と言葉との関わりを解説
〈概要〉
〇美学論(言語論・修辞論)
〇言葉の力であるレトリックの仕掛けを探ることは、
美学・哲学における最先端の問題につながるのだ。
(→要旨)
〈全体の構成〉 (→要約→要旨)
【一】理屈を超えたものを表現するレトリック
(序論…導入・話題提示)
〇言葉=(自分の)思考→(他人に)表現(伝達)
↓しかし
心の全て(理屈=意識 + 無意識=深層心理)
↓ 〇 ×
言葉で表現できず
↓
「どうすれば言葉は思考に追いつけるか」
(言葉は思考の全てを表現できるか)
↓
◎理屈を超えたものを表現するための
通常の文法を超える言葉の用法=レトリックが必要
↓
文法に逆らってまで、正確な表現を目指す
▼理屈を超えたもの(心の全て)を(正確に)表現するための、通常の文法を超える言葉の用法であるレトリックが必要とされ登場した。
【二】レトリックの表現を必要とした千年前の歌人
(本論@…具体例)
〇レトリックを必要としたのは詩人
↓
日本では、千年前の歌人
→日本最古の文学論『古今集』仮名序の著者紀貫之
↓
「心に思うこと」をいかなるレトリックによって
言葉に表すか (表現技法)
=「どうすれば言葉は思考に追いつけるか」
▼レトリックによる表現を必要としたのは詩人であって、日本では千年前の歌人たちであった。(心の全てを言葉で正確に表現する方法として必要とした。)
【三】歌人のレトリックに合わせた思考と世界観
(本論A…問題提起と考察)
<しかし>
@そんな問題は解決
↓
別の問題を見出す=「思考は言葉に追いつくか」
(言葉で表現したものを全て思考・理解できるか)
↓
〇理屈を超えたものを、
通常の文法を超えた用法で表現(レトリック)
↓
「私達の知っている世界」から切り離された
未知の世界
→既知の世界と違う、未知の言葉が連関し自己増殖
(未知の言葉が関わり合い、意味が膨らんでいく)
↓
理屈の通る世界ではない(からだ……)
↓
(歌人でなく、筆者の考え→)理解しようとするなら
「慣れ親しんだ世界」の外からの視点で迫るべきだ
↓
狂気の沙汰
▼歌人たちは、レトリックを実践して言葉の表現の問題を解決したが、言葉で表現したものを全て思考できるかという別の問題を見出した。レトリックで表現したものは、理屈の通らない未知の世界だからだ。
(筆者の考え→)理解しようとするなら、既知の世界の思考から脱却し、別の視点で迫るべきだ)
↓
↓
<しかし>
A(後の)中世の歌人たち
↓
(思考に合わせて言葉の枠を限らず)
言葉の切り開く世界に合わせて思考を広げよう
(レトリックによる言葉の表現が理屈の通らない
未知の世界であっても、そのまま受け入れて、
既知の世界と違う視点で思考させようとした)
↓
無意識の心の働きがあることも自覚し、
頭を切り替えて未知の世界に身構えること
↓
=異質な言葉を、
頭で解るのではなく、呑み込むように受け入れる
↓
私達の思考法を変え、世界は新しい姿で現れる
→(見える?)世界の意味の構造が変わるから
→思考法や世界観が変わる
↓
歌人たちはそのようなレトリックの力を信じた
▼しかし、中世の歌人たちは、レトリックによる表現が理屈の通らない未知の世界であっても、頭で解るのでなくそのまま呑み込むように受け入れることで、私達の思考法が変わり新しい世界が見えて来ることを信じたのだ。
【四】現代の最先端の美学・哲学も繋がるレトリック
(結論)
〇言葉が意味を失うぎりぎりの所での極限を実験
=レトリックの手法
↓
和歌だけでなく、今日の文芸一般・広告コピー
まで用いられる
↓けれども
力の射程・美学的意義の深さは明らかでない
→未解明な心の働き方の仕組みを探ることだから
↓
現代の美学・哲学での最先端の問題と繋がる
▼レトリックの手法は、和歌だけではなく今日の文芸一般・広告コピーまで用いられ、未解明な心の働き方の仕組みとも関係があり、美学・哲学における最先端の問題とも繋がっている。
〈200字要約〉
千年前の歌人は、理屈を超えたものを含め心の中の全てを表現するために、通常の文法を超える言葉の用法であるレトリックを必要とした。思考・理解の問題が生じたが、その言葉の切り開く世界は、頭で解るのでなく呑み込むように受け入れることで、私達の思考法や世界観を変えるのである。レトリックの手法は、和歌だけでなく今日の文芸一般・広告コピーまで用いられ、美学・哲学での最先端の問題と繋がっている。
※(参考)
一つのメルヘン 中原中也
秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。
陽といつても、まるで硅石か何かのやうで、
非常な個体の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。
さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。
やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました
……
(解説)
秋の夜、鉱物の粉末のような冷たく乾いた陽が降り注ぎ、何もなく無機的で寂しく荒涼とした河原に、一つの美しくはかない生命あるものが訪れると、懐かしい潤いのある優しい世界が開けてきた、という幻想的な物語である。
〈作者〉
・明治40年(1907)〜昭和12年(1937)
・山口県生まれ
・主な詩集→「山羊の歌」「在りし日の歌」
(感想1…ネット上より)
「一つのメルヘン」は、詩集『在りし日の歌』に収められています。
私は国語の授業で、初めてこの詩を知りました。
此の世のものとは思えない、
まさに彼岸のことを歌っているような詩だと思います。
死を意味するような小石ばかりの河原に、一つの蝶がとまることによって、川は再生するんですね。
川床の水は、まさに生の象徴でしょうか。
でもこの蝶は、川の再生を見守ることなく、見えなくなってしまいます。
かなしくて、さみしくて、うつくしい詩。
さらさらというオノマトペが、絶え間なく流れているのも、歌が流れているようです。
さて、みなさんはこの詩、どのような感想を持たれましたでしょうか。
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right★補足・発問★
(評論)2017年10月
〈作者〉
・昭和22年(1947)〜
・日本の美学・古典の研究
・他の著書→「花鳥の使―歌の道の詩学」など
・レトリック=言い回し・修辞技法・表現技法
(比喩・擬人法・対句・縁語・掛詞など)
→言葉を飾るばかりで、内容を誤魔化す
というマイナスの意でも使われる
→見立て=対象を他になぞらえて表現する
=レトリックとは
・絵を見たり曲を聴いたりして感動した時、誰かに恋
した時、その理由を理屈で説明できるか?
また、詩を鑑賞する時、評論のように論理的に理解
できるか?
・記号化=(文章・音声など)言葉で表現すること
・言語(ごorげんご)に絶する=程度が甚だしくて
言葉で言い表せない
・所以(ゆえん)=わけ・理由・根拠
・綾=模様を織り出した美しい絹織物
→言葉のあや=複雑な心模様を言葉で美しく表現
→言葉の意味を正確に表現するための文法とは違う、
本来とは別の意味を表すような異質な用法
(→比喩・象徴的手法?)
・象徴=形がなく分かりにくいものを、具体的なもの
に置き換えて表現すること。シンボル
=レトリックの表現
・一段・二段は表現、三段は思考・理解について
述べ、四段はまとめとなっている
→905年(平安時代)『古今和歌集』成立
→詩歌は思いの表現だから
→どうすれば言葉は思考の全てを表現できるか
=レトリックの理解
※一段・二段の表現に対し、
三段は思考・理解について述べる
→「どうすれば言葉は思考に追いつけるか」は解決
=理屈を超えたものを表現するレトリックの実践
→レトリックによる表現を、思考・理解できるか
→例えば、心象風景を比喩で表現したものの理解は?
→理解できない
→レトリックの追究で生じた未知の世界を理解しよう
とするなら、既知の世界の思考から脱却すべきだ
→理屈の通らない世界を、「私達の知っている世界」
と異なる視点で思考・理解するなどということは
あり得ない→思考しても理解できるとは限らない
=言葉の本来の意味とは違うものを表現する異質な
用法で語られた世界は理屈の通る世界ではなく、
理解するには「私達の知っている世界」と異なる
視点で思考しなければならないが、そのように別
の視点で思考し理解するなどということは普通あ
りえず、思考しても理解できるとは限らない
→理解するには(?)、@別の視点で思考する、
A頭で考えるのでなく、そのまま呑み込む
→1205年(鎌倉時代)『新古今和歌集』成立
→思考に限界があっても言葉は限定せず
→「頭でわかるのでなく、呑み込むように付き合う」
という、後にある表現と同じ意味
→作者も読者も無意識の心の働きがあるのであり、
理屈の通らない未知の世界であっても、
頭を切り替えて、そのまま受け入れる身構えをする
→異質な言葉が表現する新しい世界が見えて来る
(理解されるかもしれない)
→世界の意味の構造
=理屈・意識の世界+理屈を超えた(無意識の)世界
(理性的・合理的)(比喩的・象徴的・哲学的?)
→私達の思考法を変え、世界が新しい姿で現れる
ような力
△私達の思考法や世界観を変えるような言葉の力
△言葉の切り開く世界に合わせて思考を広げる力
=最先端に繋がるレトリック
→言葉の意味を正確に表現するための法則である文法
と異なり、本来の言葉の意味と掛け離れた別の世界
を表す異質な用法(→比喩・象徴的手法?)
→無意識の心の働き(深層心理)もある、理屈の通ら
ない未知の世界で、人それぞれに感受性も異なる?
(感想2…ネット上「中原中也・全詩アーカイブ」)
秋の夜なのに
陽が射している
そのうえ
蝶さえ飛んできた
小石しか見当たらない河原。
さらさらと射す
という不思議な詩句。
さらさら、は
普通なら
粉のようなもの
砂のようなものの
乾いたイメージを表す
擬音語・擬態語なのに
太陽の光の降り注ぐ様を
さらさら射す、と
言い表す。
光がさらさら
音がさらさら
水がさらさら
不思議な詩です。
いつ読んでも
新鮮な気持ちになり
洗われるのは
なぜでしょう。
ひょっとして
死のイメージの
安らかさが
よぎるからでしょうか――。
小石ばかりの、河原があつて、
……の1行が喚起する
生物のいない河原のイメージはなんだろう。
陽が硅石のようでもあり
個体の粉末のようでもあり
……
そこへ、1匹の蝶が
飛んできて起こる
革命!
河原が息を吹き返します。
大岡昇平のいうように
「異教的な天地創造神話」
とまで読むには及びませんが……。
それまで流れていなかった
川の水が
いつしか流れ出し
こんどは
その水が
さらさらと流れるきっかけには
一匹の蝶が
どこからともなくやってきて
どこへともなく飛んで行く
というのは
やはりメルヘン……。
ほかにも
いくつかの謎があります。
その謎を謎として
味わっていると
また謎が生まれ……
その謎の中にあることが
詩を味わうという至福の時間であるなら
ずっとその謎の中にありたい――。
といえるような詩です。
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