left★板書(+補足)★
〈補足1…参考〉
ダダイズム=第一次世界大戦中(1914年〜)欧米
で起きた既成の秩序・常識を否定する芸術運動。
戦争による破壊と殺戮は「人間に理性はあるのか」
という疑問を抱かせ、<理性を根本的に否定>し、
芸術・全文明さえも否定するような考え方が現れ、
意識的な作為を否定し、意識の下に存在する広大な
無意識下による偶然性・無作為性・無意味性の中に
美を見出そうとした
象徴詩=19世紀末、自然主義の客観主義への反動
としてフランスからヨーロッパ諸国に広まった詩。
外界の写実的描写よりも、内面世界の主観的表現を
重視する。即ち<掴み難い想念の世界(主題)>を
詩句の<音楽性・映像性・暗示性によって象徴化>
して表現し、直接的に叙述しない。フランスの詩人
ボードレール・ランボー・ベルレーヌらが有名。
明38(1905)上田敏『海潮音』(訳詩集)
・フランスの象徴詩を紹介
・(ドイツの詩人)カールーブッセ「山のあなた」
山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ
噫(ああ)、われひとと尋(と)めゆきて
涙さしぐみ(涙ぐみて)かへりきぬ。
山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ
〈補足2〉
△「さらさらと」という繰り返しの効果
・オノマトペ(擬態語・擬音語)
→具体的イメージの効果
・音感→乾いた感じ・軽い感じ・滑らかな感じ
【第一連】陽射しの比喩→乾いた感じ・軽い感じ
【第二連】珪石の粉末→一層乾いた感じ・軽い感じ
【第四連】川の水の比喩→滑らかな感じ(?)
△小石ばかりの河原
・涸れた河原→賽の河原のイメージ
↓
死んだ子供が行く所と言われる冥途んお三途の川
の河原。ここで子供は父母の供養のために小石を
積み上げて塔を作ろうとするが、絶えず鬼に崩さ
れる、そこへ地蔵菩薩が現れて子供を救うという
↓
・賽の河原に地蔵菩薩が子供を救いに来るように、
蝶が一つの生命として訪れると、水が流れ始める
△「陽」「蝶」の存在的イメージ
・陽
→夜の河原に降り注ぐ陽射し→非現実的・幻想
→さらさら→珪石の粉末にたとえ→乾いて透明
→蝶の出現によって、太陽光線が水に変化
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right★発問☆解説ノート★
・蝶
→唯一の生物→秋には残り少ない儚い命
→その生命が無機的な河原に生命を引き寄せた
→蝶が去った後、水が流れ出す
河原を変質→生物の息吹→幻想から現実へ
→水→生命の比喩
↓
蝶は、無機的な世界を、生命のある有機的な世界
に変質させた、魔法使いのようなもの?
↓
△「一つのメルヘン」という題
水が流れていず生物の姿もない非現実的な河原に、
一つの蝶が訪れると、急に河原に流れ始める。暫く
すれば、花や鳥など色々な生き物たちの姿が見える
ようになるかも知れない。死の河原は、一つの蝶と
いう魔法のようなものの出現により、生の河原へと
変化したのである。何とも救われる夢物語である
〈補足3…作者年譜〉
明治40年(1907)〜昭和12年(1937)
山口県湯田温泉生まれ。代々開業医の名家
の長男で、医者になることを期待される。
生後間もなく、陸軍軍医の父の任地である
旅順・広島・金沢と移る。
大正03年(1914)故郷山口の小学校に入学
成績優秀で神童と呼ばれる。
8歳の時、弟が病死して、文学に目覚め、
フランス語を学ぶ。
大正09年(1920)山口中学
短歌制作に没頭、学業を怠る(13歳)
大正12年(1923)落第、京都の立命館中学に転校
フランス象徴派文学を知り、詩作を始める
女優志望の長谷川泰子と同棲(16歳)
大正14年(1925)二人で上京するが、同棲中の
<長谷川泰子が小林秀雄の元へ去る>
衝撃は詩作の深い動機づけとなる(18歳)
大正15年(1926)日本大学予科(19歳)
衝撃の中「朝の歌」を書く(詩人として出発)
(孤独な精神の揺らぎの中で夢を追想)
昭和04年(1929)大岡昇平らと雑誌「白痴群」創刊
雑誌「生活者」に初期詩篇の一篇「無題」
として「サーカス」発表(作者22歳)
昭和08年(1933)東京外国語大学卒業
遠縁の上野孝子と結婚、アパートには小林
秀雄・大岡昇平らがよく訪れる(26歳)
昭和09年(1934)長男誕生
第一詩集『山羊の歌』出版
象徴派的作風が注目される(27歳)
昭和11年(1936)愛児(2歳)が死亡
悲嘆のあまり神経衰弱(29歳)
昭和12年(1937)療養生活。10月、
(急性)結核性脳膜炎で死去(30歳)
350編以上の詩を残す
翌 13年(1938)第二詩集『在りし日の歌』
(没後、託された小林秀雄が刊行)
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