left★原文・現代語訳★   
「古典現代語訳ノート」(普通クラス)
   「万葉集」 額田王

〈出典=『万葉集』〉
〇成立 奈良時代後期 760年前後(上代)
    現存する日本最古の和歌集
〇撰者 未詳(大伴家持の編集と推定される)
〇内容 歌数4500余首、全20巻
    →部立は、雑歌・相聞・挽歌の3種が中心
    (他に、四季・譬喩歌・羇旅歌・問答歌など         に分けて編集)
    →天皇・貴族から庶民まで様々な階層の歌
    (前後3世紀にわたる時代の歌を集める)
    (庶民の哀歓を詠んだ東歌・防人歌もある)
    →漢字を用いた万葉仮名によって表記される
〇歌風 清新・素朴・雄大・簡明→「ますらをぶり
    近代以降の短歌に大きな影響
    →『古今和歌集』は、女性的・優雅・流麗・      繊細・理知的傾向→「たおやめぶり
    →枕詞・序詞・対句・反復・掛詞・縁語など      の技巧が用いられ。る
    →(韻律)五七調・七五調など
〇歌体 長歌・短歌・旋頭歌・仏足石歌・片歌など

〈時代背景〉
〇律令国家の時代(王朝貴族社会への過渡期)
 →万葉仮名の発明により、口承文学が記録化され、   記載文学の時代へと移る。

right★補足・文法★   
(和歌集)2022年7月


〇部立
 ・雑歌 他の分類に属さない旅・宴・遊覧などの歌
 ・相聞 相互の起居を問う歌。男女の恋愛歌が多い
 ・挽歌 棺を挽く時の、死者への哀悼を歌う歌

〇歌風の変遷(4期)
 @第一期 初期万葉の時代(壬申の乱までの動乱期)
      集団的歌謡から、個性を率直平明に表現       した歌への過渡期。額田王が代表的。
 A第二期 万葉調の時代(律令国家の確立期)
      飛鳥・藤原京の時代。雄大荘重な叙事性       に富む専門家人の柿本人麻呂が代表的。
 B第三期 万葉調の最盛時代(律令国家の安定期)
      個性的な歌が開花して文学として深まる       時代、山上憶良・大伴旅人が代表的。
 C第四期 万葉時代の終焉時代(天平文化の爛熟期)
      歌が繊細・幽寂となり、社交の具として       用いられ始める。大伴家持が代表的。

left★原文・現代語訳★   
〈和歌の修辞など〉
〇枕詞=上に置き、特定の語句を導く五音の修飾語
                (口語訳しない)
〇序詞=上に置き特定の語句を導く七音以上の修飾語
                 (口語訳する)
〇掛詞=同音なので、一語に二つの意味を持たせた語
       (限られた字数で表現を豊かにする)
〇縁語=ある語を中心に関係の深い語を用いる技巧
              (連想を膨らませる)
〇韻律・句切れ
※詞書=歌を作った時・所・背景などを述べた前書き
right★補足・文法★   

 ・あしひきの→山・峰  ・あらたまの→年・月
 ・くさまくら→旅・露  ・しろたへの→衣・袖
 ・ぬばたまの→黒・闇  ・ひさかたの→天・光

 ・かる→離る・枯る   ・きく→聞く・菊
 ・ふる→降る・古る   ・まつ→待つ・松

 ・衣→着る・張る・袖  ・露→消ゆ・結ぶ・玉
 ・月→傾く・入る・影  ・涙→流る・袖・水

left★原文・現代語訳★   
〈授業の展開〉

〈作者=額田王〉
・生没年未詳(?〜?年)
・7世紀後半、万葉女流歌人で藤原鎌足の室となった  鏡王女の妹とする説もある。
・大海人皇子(後の天武天皇)に愛されて十市皇女を  生んだが、後に天智天皇の後宮に入ったと言う
・残した歌は、短歌9、長歌3、全部で12首と多く  ない。
right★補足・文法★   

        
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left★原文・現代語訳★   
  額田王の歌              額田王
  =額田王の歌

熟田津に   船乗りせむと   月待てば
       潮もかなひぬ   今は漕ぎ出でな
                  (巻一 8)
=熟田津で船出しようと月(が出るの)を待っいると、  (月が出て)潮も(満ちて)望み通り(良い具合)  になってきた。
 (さあ)今こそ漕ぎ出して出航しよう(よ)。

〈成立日時〉

〈主題〉(感動の中心・心情)
百済救援の戦に向かう途中、熟田津に停泊して再出発 する際に、航海の無事を祈った呪的な歌である。

〈鑑賞〉(感想・補足)
・(修辞法)四句切れ(五七調)、字余り
 →雄大・荘重な感じを醸し出す。
・これが詠まれたのは、朝鮮半島で「白村江の戦い」
 があった時である。663年、唐・新羅の同盟軍に  よって百済・高句麗が滅ぼされようとしていた頃、  要請を受けた倭国(日本)は、百済の都である扶余  と沖合の白村江に向け、数万の軍勢と千艘の軍船を  派遣したのだった。この頃、斉明天皇と中大兄皇子  は難波〜熟田津〜博多と瀬戸内海を西に向かった。  その途中、熟田津に停泊して旅の疲れを癒した後、  まさに出航という再出発の際の宴で同行した額田王  に詠まれた歌である。
 戦いは、結局は敗北に終わったが…。
・一行の航海の無事を祈るような呪的な表現である。

right★補足・文法★   
・斉明天皇が詠んだという説もある。


・熟田津=愛媛県松山市の道後温泉の辺りにあったと      言われる港
・敵う=(条件などに)当てはまる、望み通りになる、     適合する、ぴったり合う
・漕ぎ出で(ダ行下二段)な(呼びかけ・詠嘆、終助詞)
※…な=意思(…しよう)勧誘(…しようよ)を表す     奈良時代以前の終助詞














ヘンデル「協奏曲ト短調」

        
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left★原文・現代語訳★   
  天皇、蒲生野(カマフノ)に遊猟(ミカリ)する時に、   額田王の作る歌            額田王
  =天智天皇が、蒲生野で遊猟なさる時に、               額田王が作った歌

あかねさす  紫野(ムラサキノ)行き   標野(シメノ)行き
       野守(ノモリ)は見ずや  君が袖振る
               (巻一雑歌 20)
=(茜色の)紫草が生える野を(貴方は)行き、御料地  の野を行っていますが、野の番人は見ないでしょう  か。(いや、きっと見るでしょう。)貴方が(私に)  袖を振るのを。

〈成立日時〉

〈主題〉(感動の中心・心情)
天皇の主催する遊猟で、 <大海人皇子が自分に袖を
振るのを微笑みながら見咎める>
思いを詠んだ歌

〈鑑賞〉(感想・補足)
・(修辞法)四句切れ、枕詞、倒置法
・「袖を振る」とは、相手の魂を自分に呼び寄せよう  とする、呪術的な求愛の仕草と見なされたと言う。  従って、天智妃であったという説もある額田王の、  大海人皇子との三角関係を思わせる内容ではある。
・しかし、この歌は恋愛の歌である「相聞」でなく、  「雑歌」(儀礼の時の歌)に分類されている。
 即ち、狩りの後の酒宴の席で、座を盛り上げようと  して披露された歌のようだ。額田王が宴での余興と  して呼び掛けると、相手の大海人皇子も当意即妙で  返したという、宴席での応酬歌であったというのが  真相のようだ。

〈参考〉
※ 皇太子の答ふる御歌        大海人皇子
  =皇太子の答えた歌

紫草(ムラサキ)の  にほへる妹を  憎くあらば
        人妻ゆゑに   我れ恋ひめやも
               (巻一雑歌 21)
=紫草のように美しい貴方を憎かったならば、
 (貴方は)人妻であるのに、どうして私が恋い慕う  ことがあるでしょうか。

right★補足・文法★   
・遊猟=宮廷の廷臣たちが、美しく衣服を整えて野山     に出て、 鹿を狩ったり薬草を集めたりする     行事。ここは夏5月の年中行事としての薬狩
・あかねさす=「日」「紫」などに係る枕詞。
・紫草=ムラサキ科の多年草。高貴な色とされ紫色の     染料を根から採った。生えている紫野は宮廷     の直轄地として保護されていた。
・標野=一般の立ち入りを禁じた丘陵地。御料地
・野守=標野(御料地)の番人。
・見()ず(打消)や(反語の係助詞)























            コレルリ「ソナタト短調」

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