left★原文・現代語訳★  
「古文現代語訳ノート」(普通クラス)
   「今昔物語集(巻24)/三河守大江定基」

〈出典=『今昔物語集』〉
〇成立 平安末期(1120年以後)
    →12C末までに原型→増補・加筆
〇編者 未詳
〇説話集 31巻(1000話)
     →80話が『宇治拾遺物語』と重複
〇内容 天竺(インド)震旦(中国)本朝(日本)
    舞台とする説話を収録
 →仏教的・教訓的
 →本朝部の説話は様々な地域と階層の人物が登場し   当時の人々の生活や人間性が生き生きと描かれる
〇文体 漢字・仮名交じりの簡潔な表現
    →和漢混交文の先駆
〇書名 各話が「今は昔」で始まる所から

〈概要〉
大江定基は、三河守だった頃、鏡を売る女の歌に心を 打たれ、鏡は返して米10石に返歌を添え、女の家へ 車で送り届けた。その後、出家するのだが、道心譚と して著名な話である。      (→要約・要旨)

right★補足・文法★        
(説話)2021年8月








芥川龍之介『羅生門』を初め多くの小説や漫画など
 が、『今昔物語集』を素材として書かれている
 →心理分析・脚色がなされ、話の流れが異なる

  (写真2枚はネット上より借用)

全体の構成 【一】(起)ある女が鏡を売りに来た大江定基の家 【二】(承)立派な箱入りの鏡と添えられた歌
【三】(転)感涙して車に米・鏡・返歌を送った定基 【四】(結)女が住む五条油小路の荒れた檜皮屋
left★原文・現代語訳★
〈授業の展開〉

【一】<ある女が鏡を売りに来た大江定基の家>

今は昔、大江定基朝臣(あそん)、三河守にてありける 時、世の中からくして、つゆ食物(じきもつ)なかり けるころほひ、五月の長雨(ながめ)しけるほど、女の 鏡を売りに定基朝臣が家に来たりければ、
=今となっては昔のことだが、大江定基朝臣が三河守  だった時、世の中がひどく(飢饉に見舞われ)て、  全く食物がなかった時代(があった)、五月の梅雨  の雨が降り続いた頃、ある女(の使い)が鏡を売り  に定基朝臣の家に来たので、

▼(段落まとめ)
飢饉に見舞われて全く食物がない時代の五月雨が降り 続いた頃、ある女が鏡を売りに大江定基の家にやって 来た。

right★補足・文法★        




・朝臣=五位以上の人につけた敬称
・三河守=現在の愛知県東部の長官(国司)
・遙任(国司)=奈良・平安時代などに、任国へ赴任  しなかっ国司。目代(代理人)を現地へ派遣して、  俸禄・租税などの収入を得ていた
※略歴には、三河守として任国に赴任していたとある  が、「五条油の小路」辺という地名も見えるので、  大江定基は京都にいた時かも知れない(?)







left★原文・現代語訳★    
【二】<立派な箱入りの鏡と添えられた歌>

取り入れて見るに、五寸ばかりなる押覆(おしおほ)ひ たる張筥(はりばこ)の、沃懸地(いかけぢ)に黄に蒔 (まけ)るを、陸奥紙(みちのくがみ)の香(かう)ばしき に包みてあり。
=(女の使いを家に呼び入れて)受け取って見ると、  五寸くらいの蓋の付いた布張りの箱で、金粉銀粉を  流した漆塗りの地に金の蒔絵(まきえ)が施してある  ものを、(厚手で高級な)陸奥紙で香ばしい(立派な)  ものに包んである。

開きて見れば、鏡の筥の内に薄様(うすやう)を引き 破りて、をかしげなる手をもってかく書きたり。
=開いて見ると、鏡の箱の内側に、(鏡と一緒にある)  薄手で良質の紙を引き破って、美しい筆跡で(歌が)  こう書いてある。

▼(段落まとめ)
鏡は、香ばしい陸奥紙で包んで、蒔絵を施した美しい 箱の中に入っていて、歌が一緒に添えられていた。

right★補足・文法★        


・五寸=15cm(1寸=3cm)
・沃懸地=漆塗りの地に金銀粉を流したもの
・蒔絵=漆を塗って文様を描き、地が乾かないうちに     細かな金銀粉や色粉などを蒔きつけてを固着     させて磨いた、日本独自の漆工芸。奈良時代     に始まる
・陸奥紙=厚手の良質で高級な和紙



・薄様=薄手で良質の紙
・をかしげなり=愛らしい感じである、いかにも趣が         ある







left★原文・現代語訳★
【三】<感涙して車に米・鏡・返歌を送った定基>

  今日までと 見るに涙の   ます鏡
        慣れぬる影を 人に語るな
と。
=(この使い慣れた澄んだ鏡も)今日までか と思って  見ると、涙が溢れて増すばかりだ。(今まで私の顔  を見て来た)真澄みの鏡よ、 見慣れた私の姿を、  (この先どうか)人に語らないでおくれ。
 と(書いてある)。

定基朝臣これを見て、道心を起こしたるころほひに て、いみじく泣きて、米十石を車に入れて、鏡をば 売る人に返し取らせて、車を女に添へてぞやりける。
=定基朝臣はこれを見て、(ちょうど)出家して仏道に  入る心を起こした頃だったので、ひどく感涙して、  米十石を車に積んで、鏡は売りに来た(使いの)人に  返してやって、車を添えて女のもとに贈ったのだ。

歌の返しを鏡の筥に入れてぞやりたりけれども、その 返歌をば語らず。その車にそへてやりたりける。
=歌への返歌を鏡の箱に入れて贈ってやったけれど、  その返歌は語(り伝え)ら(れてい)ない。(米を  贈った)その車に(付き添いの者を)つけてやった  のだ。

▼(段落まとめ)
歌に感涙した定基は、米十石を車に積み、鏡は返して 返歌を添え、付き添いの者も付けて、女の家に送って やった。

right★補足・文法★        


・ますかがみ=曇りなく澄んでいる(真澄みの)鏡
☆女は、鏡を手放す悲しみを詠む







・十石=1,500kg
・やる=送る、贈る、届ける、与える






☆定基は、女をあわれに思って鏡を返してやり、米を
 与えて返歌を添え、付き添いの者も付けてやった。
※女は、身分ある貴族女性だったのが、大飢饉と他の  何らかの事情で、大切なものも手放さざるを得ない  貧困に陥っていた、と推察できる。
 @立派な蒔絵の箱に入った鏡 A美しい筆跡 B歌
 C車が引き入れられた五条油小路の檜皮葺きの邸





left★原文・現代語訳★    
【四】<女が住む五条油小路の荒れた檜皮屋>

雑色(ざふしき)の返りて語りけるは、「五条油の小路 辺に荒れたる檜皮屋(ひわだや)の内になむ下ろし置き つる。」とぞ云ひける。誰が家とは云はぬなるべしと なむ語り伝へたるとや。
=(車に付き添わせた)下男が帰って来て語ったこと  には、「五条通と油小路の交差する辺りに(ある)  荒れた檜皮葺きの家の中に(車を引き入れて米を)  下ろしておいた」と言った。誰の家(に送り届けた)  とは言わなかったのだろう、と語り伝え(られ)て  いるとか(言う)。

▼(段落まとめ)
雑色は帰って来てから、送り届けたのは五条油小路の 荒れた檜皮屋とは語ったが、誰の家とは言わなかった と言う。

right★補足・文法★        


・雑色=蔵人所で雑役に従事した無位の役人(公卿の  子弟などが任じられた)。貴族の家・武家・寺院で  走り使いなどの雑役に従事した下男
・檜皮屋(ひわだや)=檜皮葺(ひわだぶき)の家
 →法隆寺大講堂などの寺院は伝統的に瓦葺きだが、   寺院以外の京の住宅は板葺きで、最上級の屋敷は   檜皮葺であった。神社・内裏・将軍邸は桧皮葺、   寺院でも鞍馬寺・西芳寺などは檜皮葺である。
・…と(格助詞)や(係助詞)=…とかいうことだ
             (伝聞or不確実な内容)






left★原文・現代語訳★
〈170字要約〉
大江定基が三河守だった時、世の中が大飢饉で大変で あった頃、ある女が鏡を売りに来た。それは香ばしい 陸奥紙に包んだ立派な蒔絵の箱入りで、中には美しい 筆跡の歌も添えられていた。出家を考えていた定基は 深く心を打たれて、米10石を車に積み、鏡は返して 返歌を添え、車に付き添いの雑色も付けて送り届けて やった。女の家は五条油小路の荒れた檜皮屋だった。

〈参考…『古今著聞集』巻五「大江定基の出家」〉
三河守定基、心ざし深かりける女の、はかなくなりに ければ、世を憂きものに思ひ入れたりけるに、
=三河守大江定基は、愛情の深かった女性が、空しく  死んでしまったので、世の中を嫌なものだと思い込  んでいたところ、

五月の雨晴れやらぬころ、ことよろしき女の、いたう やつれたりけるが、鏡を売りて来たれるを取りて見る に、その鏡の包み紙に書ける、
=五月の雨がすっかり晴れない頃、別のそれほど悪く  ない女性で、ひどく(身なりの)衰えていた人が、  鏡を売って(使いの者がやって)来たのを見ると、  その包み紙に書いてあった歌(がある)、

  今日のみと 見るに涙の ます鏡
        慣れにし影を 人に語るな
  =(日ごろ使った鏡も)今日を限りだと見ると、    涙が溢れて増してくる。その「増す」ではない    が、曇りのない増鏡で見慣れた女性の姿の話を    人に語ってはいけません。

これを見るに、涙とどまらず。鏡をば返し取らせて、 さまざまにあはれみけり。道心もいよいよ思ひ定めけ るは、このことによれり。
=これを見ると、涙が止まらない。鏡は返してやって  様々にしみじみと気持ちになってしまった。出家の  意志もますます固まったのは、この出来事によって  いる。

出家の後、寂照上人とて入唐しける。かしこにては円 通大師とぞいはれける。清涼山の麓にて、つひに往生 の素懐を遂げられけり。
=出家の後、寂照上人として唐に渡った。あの唐の地  では円通大師と呼ばれた。清涼山の麓で、最後には  往生の本願をお遂げになった。

right★補足・文法★    




〈参考…大江定基の略歴について〉
962?〜1034年。平安時代中期の天台宗の僧・文人で 参議大江斉光の子。文章・和歌に優れ図書頭・三河守 を歴任、従五位下に至る。出家して、寂昭・三河入道 などと称される。
三河守として赴任する際、妻と離縁して別の若い女性 を任国に連れて行った。だが、この女性が亡くなった ことから、988 年に出家し、叡山三千坊の如意輪寺に 住んだ。その後、天台教学や密教を学んだ。
1003年に宋に渡海。蘇州の僧録司に任じられ、 皇帝 から円通大師の号を賜る。日本への帰国も考えたが、 蘇州呉門寺に留まった。その後、帰国する事なく杭州 で没した。



〈参考…大江定基について補足…説話〉
定基が三河守として任国に連れて行った女が亡くなっ た際、悲しみの余り、しばらく埋葬せずに女の亡骸を 抱いて臥していた。数日後、定基が女の口を吸うと、 ひどい死臭がした。さすがに定基も耐えられず女に対 して疎ましく思う気持ちが起こり、ようやく女を埋葬 した。その後定基は「この世はつらく苦しいものだ」 と、発心を起こしたという。
出家した寂照が都で乞食をしていたところ、離縁した 妻に会い、元妻に「『私を捨てた報いで、このように (落ちぶれた姿に)なれ』と思っていたが、この通り 見届けることができたことよ」と 辱めを受けたが、 逆に寂照は「この徳により必ず仏心を得られるであろ う」と手をすりあわせて喜んだという。


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