left★原文・現代語訳★
「古文現代語訳ノート」(普通クラス)
   「十訓抄/大江山の歌」

〈作品=『十訓抄』〉
〇鎌倉中期1252年成立
〇(内容)世俗説話集
 →史書・物語の教訓的な説話282話を十編に分類
 →平清盛・重盛などの美点を語る回顧的な性格

〈概要=「大江山の歌」〉
〇定頼とのエピソードで有名な小式部内侍の歌
〇歌合で、中納言定頼から丹後国にいる母に使いを
 立て代作を頼んだかと揶揄われた際、返事として
 小式部内侍が即興で見事な歌を詠んだ、という話
 →「小式部内侍が大江山の歌のこと」の題で
  『古今著聞集』や『百人一首』にも収録
 →「金葉集」にも長い詞書が付く

〈全体の構成〉        (→要約→要旨)

【一】<母が不在の頃の歌合>
和泉式部、保昌が妻にて、丹後に下りけるほどに、京 に歌合ありけるに、小式部内侍、歌詠みにとられて、 歌を詠みけるに、
=(歌人として有名な)和泉式部が(藤原)保昌の妻  として、(夫の任地の)丹後国に下っていた頃に、  京都で歌合があったが、その時に、(娘の)小式部  内侍が歌合の詠み手に選ばれて、歌を詠んだことが  ある。その時に、

▼(段落まとめ)
母の和泉式部が不在の頃に京都で歌合があり、小式部 内侍が詠み手に選ばれて歌を詠んだことがあった。

【二】<代作は届いたかとの定頼の揶揄>
定頼の中納言たはぶれて、小式部内侍ありけるに、 「丹後へ遣はしける人は参りたりや。いかに 心もとなく思すらむ。」と言ひて、局の前を過ぎられ けるを、
=定頼中納言がふざけ(からかっ)て、小式部内侍が  局(私室)にいた時に「丹後国へ遣わした人は京都  に帰って参りましたか。さぞかし待ち遠しくお思い  になっていることでしょう」と言って、小式部内侍  のいる局の前を通り過ぎなさったところ、

▼(段落まとめ)
その時に、母の代作は届いたかという定頼中納言から 揶揄われることがあった。

【三】<小式部が返事に詠んだ即興の見事な歌>
御簾より半らばかり出でて、わづかに直衣の袖を控へ て
=小式部内侍は、御簾から半分ほど体を乗り出して、  少し定頼の直衣の袖を引き止めて

大江山  いくのの道の  遠ければ
     まだふみもみず 天の橋立
=大江山を越え、生野を通って行く(丹後への)道が  遠いので、まだその先の天の橋立に足を踏み入れた  ことはなく、母からの手紙も見てはいません

と詠みかけけり。
=と詠みかけ(て返歌を求め)た。

思はずに、あさましくて、「こはいかに、かかるやう やはある」とばかり言ひて、返歌にも及ばず、袖を引 き放ちて逃げられけり。
=定頼は、意外な事で驚き呆れて、「これはどうした  ことか、このようなことがあるものか、いやある筈  がない」とだけ言って、返歌を詠むことも出来ず、  袖を引っ張り放してお逃げになったと言う。

▼(段落まとめ)
それに対し、小式部が「大江山…」と即興の見事な歌 で応えると、驚き呆れた定頼は返歌もせず退散した。

【四】<評判が広がった小式部内侍>
小式部、これより、歌詠みの世におぼえ出で来にけり。
=小式部内侍は、この一件以来歌詠みの世界で名声が  広がることになった。

これはうちまかせての理運のことなれども、かの卿の 心には、これほどの歌、ただいま詠み出だすべしとは 、知られざりけるにや。
=これ(揶揄に対し、和泉式部の血を引く小式部内侍  が即興の見事な歌で応えたこと)はごく普通の道理  に適った当然のことであるけれども、あの(定頼)  卿の心には、これほどの歌を、すぐに詠み出すこと  ができるとは、お分かりにならなかったのであろう  か。
▼(段落まとめ)
これ以来、歌詠みの世界で小式部の名声が広がること になったが、定頼には予測できなかったのだろうか。


・大江山=諸説あり
 @大枝山=京都市西京区と亀岡の境に位置する標高
  480mの山で、南の山腹に老ノ坂峠がある。
  京都から山陰道を下る時、必ず通る山城と丹波の
  国境にあり、交通・軍事の要所・歌枕の地。
 A京都府宮津と福知山の中間で、鬼退治で有名な山
・生野=京・亀岡から行けば福知山の手前10kmに
 生野神社がある。当時はこの里を通って丹後へ行く
・天の橋立=京都府宮津市の名勝(日本三景の一つ)

right★補足・文法★
(説話)2018年2月(19年4月改)


〈作者〉
・未詳→六波羅二臈左衛門入道説がある

〈参考〉
※小式部内侍=平安中期の女流歌人(〜1025)
 父は陸奥守の橘道貞、母は有名な歌人の和泉式部
 母と共に上東門院彰子に仕え、藤原公成の子を生み
 間もなく26・7歳で病死
 『小倉百人一首』にある「大江山…」の歌が有名
 他にも後拾遺集・金葉集などの勅撰集に入集
 多くの逸話が歌論書や説話集に見える

・局=殿舎の中を板や壁や屏風などで仕切った、独立
   した部屋。上級の女官・女房の私室に用いた




※和泉式部=小式部内侍の母
 平安時代を代表する歌人で『和泉式部日記』の作者
・妻+にて(格助詞→資格=…として)
・歌合=左右に分けた歌人の詠んだ歌を左右1首ずつ
 出して組み合わせ、判者 が批評し、その優劣を競
 う遊戯。平安初期以来、貴族の間に流行。平安後期
 には歌人の実力を争う場となった。







※(藤原)定頼=有名な歌人(995〜1045)
 大納言藤原公任の子、中納言
 『小倉百人一首』にある「朝ぼらけ…」が有名
母の和泉式部に歌合で詠む歌を代作してもらうため
 丹後国へ遣わした人は京都に帰って来ましたか
 (母が代作した歌は届きましたか)
・心もとなし=不安だ・気がかりだ・待ち遠しい
       じれったい・はっきりしない
・局=女官・女房たちに与えられた私室





・直衣=貴族の平常服。参内時の着用も許される
    形態は衣冠と同じで、烏帽子・指貫を着ける
・控ふ=進まないで待つ・傍にいる・引き止める
    見合わせる

☆「いく野」(生野・行く野)・「ふみ」(踏み・
  文))は掛詞。「ふみ」「橋」は縁語
・歌合で、中納言定頼から丹後国にいる母に使いを
 立てたかと言われた際に、返事として詠んだ歌
自分で歌を詠めるので、母の代作など不要です




・思はず=意外だ・思いがけない・心外だ
















・うちまかせては=普通は、一般には
・理運=道理に適っていること、当然の巡り合わせ
・…れ(尊敬)ざり(打消)ける(過去)に(断定)や(疑問)
★和泉式部の血を引く小式部内侍が揶揄に対し、見事  な歌で応えたことは、ごく普通の道理に敵った当然  のことである
母は有名な歌人の和泉式部
 →幼少から才能を発揮して、評判(注目)
 →母の代作ではとの噂(疑惑)
 →関心があった中納言定頼の揶揄
 →返事に詠んだ小式部内侍の即興の歌
 →歌の見事さに返歌も出来ず退散する定頼
 →代作疑惑は事実無根な事を証明
 →エピソードが非常に有名に→説話にもなる

★朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
      あらはれわたる 瀬々の網代木
         (権中納言藤原定頼『千載集』)
 =夜明け方、宇治川に立ち込める霧が途切れ途切れ
  に一面に晴れていき、浅瀬に仕掛けた網代の杭が
  あちこちの所に見えてくることだ
 →「たえだえに」(川霧が途切れ途切れに・網代木
  が切れめ切れめに)は掛詞
 →「網代」=魚を捕る木の杭の仕掛け
 →宇治で早朝に見た実景

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