(先生の現代文授業ノート)茨木のり子「六月」
left★板書(+補足)★
「現代文授業ノート」(普通クラス)
   茨木のり子「六月」

〈出典〉
・初出 昭和31年(1956)「朝日新聞」6月号
    第二次大戦が終わって11年後(作者30歳)
   (1939〜45年)
・後に 第二詩集『見えない配達夫』収録

〈作者〉
・昭和元年(1926)〜平成18年(2006)
<戦争体験を見つめることが詩の出発点>
 →作者の夢見た戦後の世界を描く
・代表作 「わたしが一番きれいだったとき」など

〈表現〉
口語自由詩(定型詩に近い)
・「どこかに美しい…はないか」との問い(願望)が
 3連で繰り返し→「美しい」(五音)も繰り返し

〈概要→観賞〉
〇敗戦後、戦前と違って皆が生き生きと生きていける
 <豊かで平和な理想とする社会の実現への願望>
 詠った、三連構成の詩


〈全体の構成〉   (←時間・場面・情景・心情)

どこかに…はないか→疑問・願望
         →具体的イメージ
【第一連】<美しい村>
<一日の仕事>    <後の憩い>
    ↓(鍬・籠…農業) (黒麦酒・ジョッキ)
 <男女平等・充実> <疲れを癒やす>
 =<人々が生き生きと暮らす>→<美しい村>

【第二連】<美しい街>
<果実の街路樹><菫色の夕暮><語り合う若者>
    ↓
  <豊かさ> <美しい風景> <平和と夢>
  =<人々が生き生きと暮らす>→<美しい街>

【第三連】<美しい人と人との力>
<親しさ>  <可笑しさ>  <怒り>
    ↓
 <共に生きる><力を合わせる><時代を動かす>
 =<人々が生き生きと暮らす>→<美しい社会>


〈授業の展開〉

    六月             茨木のり子

【第一連】<美しい村>

どこかに美しい村はないか
=(あの暗い戦争も終わった現在の日本で)どこかに
 美しい村はないのか

一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒(ビール)
=(みんなが精一杯に働いた)一日の仕事の終りには
 (その充実感を)一杯の黒ビール(で癒やそうと)

鍬(くわ)を立てかけ 籠(かご)を置き
=(帰りに立ち寄った店先に、農作業で使った)
 (豊かな実りをもたらしてくれる)鍬や籠を置いて

男も女も大きなジョッキをかたむける
          (どこかに美しい村はないか)
=(男女平等なのだから……)男も女も(一緒に)
 大きなジョッキを傾け(て楽しい時を過ごせ)る
 (そんな、みんなが生き生きとした平和で豊かな)
 (美しい村が、日本中にあって欲しいものだ)

▼〈まとめ〉
一日の充実した仕事を終えた後、その帰りに男も女も
みんな一緒に集い、黒ビールを飲む楽しい様子を描く
事で、戦前と違う理想的な村の実現への願望を詠う

【第二連】<美しい街>

どこかに美しい街はないか
=(あの暗い戦争も終わった現在の日本で)どこかに
 美しい街はないのか

食べられる実をつけた街路樹が
=(美味しそうに色づいて)食べられる実を付けた
 (沢山の)街路樹(の並木道)が

どこまでも続き すみれいろした夕暮は
=(広々と)どこまでも続き、(ロマンティックな)
 菫色をした夕暮(に包まれる中で)は

若者のやさしいさざめきで満ち満ちる
          (どこかに美しい街はないか)
=(一日の仕事や学業を終えた)若者たちの(親しく
 語り合う)優しいさざめき(や恋人たちの囁き)で
 (幸せそうな姿があちこちに)満ち満ち(てい)る
 (そんな、みんなが生き生きとした平和で豊かな)
 (美しい街が、日本中にあって欲しいものだ)

▼〈まとめ〉
美味しそうな街路樹が続く夕暮れの街で、一日の仕事
や学業を終えた若者たちの語り合う幸せな様子を描く
事で、戦前と違う理想的な街の実現への願望を詠う

【第三連】<美しい人と人との力>

どこかに美しい人と人との力はないか
=(あの暗い戦争も終わった現在の日本で)どこかに
 美しい人と人との力(を合わせること)はないのか

同じ時代をともに生きる
=(この、戦後という)同じ時代を(生き生きと)
 共に生きる(中で、私達が心に感じる)

したしさとおかしさとそうして怒りが
=(睦み合う)親しさと(心から笑う)可笑しさと
 そして(時には不正に対しての)怒り(の思い)が

鋭い力となって たちあらわれる
     (どこかに美しい人と人との力はないか)
=(力を合わせることで一つの)鋭い力となって立ち
 現れ(時代を大きく動かして行け)る
 (そんな、みんなが生き生きとした平和で豊かな)
 (美しい社会で、日本中があって欲しいものだ)

▼〈まとめ〉
同じ時代を生き生きと共に生き、親しみや可笑しさと
怒りを共有し力を合わせることにより、時代を大きく
動かすような人々の美しく生きている姿を描く事で、
戦前と違う理想的な社会の実現への願望を詠う


「六月」という題名(←作者自身の言葉)
 ・新聞社の注文で6月に書いた(→自由に解釈)
 ・6月は作者の誕生月
 ・ジューン・ブライド(6月の花嫁)の言葉もある
 ・当時、土のない都心での暮らしで憧れもある
 ・外国で書いた詩と読んでくれても差し支えない
 ・鬱陶しい雨期だから、逆にカラッとした詩を作っ
  たと思ってくれてもいい→こうあって欲しい情景
 ・田植え・麦畑(麦秋)や野菜や果実の収穫時期
  or後の収穫の実りへの期待を6月時点で夢想
    ↓↑
 ・日本の伝統的な梅雨の時期のイメージではない
    ↓
  →日本でない、異国のどこか夢想の土地で六月に
   暮らすことを若い作者は夢みたのだろうか?

〈主題〉
省略→〈概要〉

〈参考〉代表作「わたしが一番きれいだったとき」
 ・私が一番綺麗だった時、
  戦争で人が死に、街が破壊されて瓦礫で覆われ、
  おしゃれのきっかけを失った、と詠った詩だが、
 ・非人間的な軍国主義からようやく解放されて、
  自立を志向する輝きや明るさが感じられる

right★発問☆解説ノート★
(詩)2019年6月



・国民の暮らしも豊かになり「もはや戦後ではない」
 と言われた頃で、人権意識なども高まりつつあった

・1958年11月



・戦時中の軍国主義教育の中で青春期を送った



・響くリズム感
 →各連とも2〜4行目が一文から成る
 →各連とも文末が動詞(同じ活用形)
 →対をなす表現 「一杯」と「一日」
         「鍬」と「籠」・「男」と「女」

・戦後、日本に初めて民主主義が実現して政治参加に
 積極的になり、自由・平等・連帯という人間らしい
 真の価値観や理想を求める作者の思いが込められる


〈教材〉

    六月             茨木のり子

【第一連】<美しい村>
どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒
鍬を立てかけ 籠を置き
男も女も大きなジョッキをかたむける

【第二連】<美しい街>
どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろした夕暮は
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

【第三連】<美しい人と人との力>
どこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる


★作者の使う「美しい」という言葉の意味
 人々が毎日を生き生きと(精一杯に)暮らしている
 生き方の素晴らしさ
 1.一日の仕事の充実感に満たされる男女
 2.幸せそうに語り合う若者や恋人たち
 3.良い社会を求め力を合わせて生きる人々
★人々が生き生きと充実した日々を過ごせる村が
 どこかにあって欲しいという願望→リフレイン


・日本ではない、異国の豊かな農村の情景のイメージ
 →日本でのビールの製造は明治時代に始まるが、
  戦前な庶民の口には入らない高級品

・「鍬」「籠」は耕作・収穫の仕事を象徴
・時間の流れ→一日の仕事を果した後の充足感


・男女の平等
★各連末尾の省略された表現
 1.ような(そんな)美しい村はないか
 2.ような(そんな)美しい街はないか
 3.ような(そんな)美しい人と人との力はないか













・戦時中の飢餓を知る作者の、食の豊かさへの願望か
 →見るためだけではなく、食の豊かさも享受できる
  自然のある街のイメージ

・これも日本ではない異国の広々として夕暮れが菫色  に包まれる都会の情景のイメージ
・「菫」の花言葉→愛・誠実・謙虚など

・一日の仕事や学業を終えた若者が夕刻に自由を謳歌
・June bride(6月の花嫁)との言葉がある西洋では
 「6月の結婚は幸せ」と言い伝えられるが、
 菫色の夕碁れの中で、若者たちは愛を囁くのだろう











☆生き生きと充実した日々を送る人々みんなが、
 思いを共有して、美しい力を合わせること
 →より良い社会を築く





・平仮名表記は穏やかな連帯感のイメージがあるが、
 漢字表記の「怒り」は権力などに対する強い団結力
 が感じられる

・第一連・第二連とも、爽やかな夕暮れの情景だが、
    ↓↑
・第三連は、想像力に訴える具体的イメージはない。
 感情や思想のみが露骨に出過ぎて、道徳的であり、
 メーデーを思わせるものがある。
 語法もやや不鮮明で、抽象的で曖昧な所がある?


・人々がみんな一緒に力を合わせて仲良く喜び合って
 同じ時代を共に生き、時代が戦争へと逆戻りしたり
 権力の不正があったりする時には、連帯して怒りを
 たぎらせて立ち向かっていく、平和で豊かな理想と
 する社会を築いていこうとする(絆・信頼・連帯)

〈参考→作者年譜〉
昭和元年(1926) 大阪府生まれ
    医師だった父の転勤で京都府〜愛知県に転居
    帝国女子医学薬学専門学校(東邦大学)卒業
戦時中 学徒動員を経験
昭和24年(1949)医師と結婚、埼玉県所沢市に     暮らす。後に東京都保谷市に転居
    シナリオ・童話を志すが、詩の制作が中心に     なる。
昭和28年(1953)雑誌「櫂」を投稿仲間だった     川崎洋と発刊
昭和30年(1955)第一詩集『対話』
昭和33年(1958)第二詩集『見えない配達夫』
     高い評価を得、精力的活動
昭和50年(1975)夫が死去(作者49歳)
     ハングルを学び、韓国詩人の翻訳紹介
平成11年(1999)晩年の詩集『倚りかかる』が
     15万部の発行部数
平成18年(2006)くも膜下出血死去(80歳)







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