left★板書(+補足)★
〈参考…作者について〉
・明治15年(1882)山口県防府で大地主の子として
生まれる
・11歳の時 父の放蕩生活のため、母が自宅の古井戸
に投身自殺→生涯に影響
・父の放蕩は止まず、没落
・早稲田に入学するが、神経衰弱のため退学
帰郷して結婚し、酒造業を営むが、破産
→屋敷や土地を処分して酒造業を営むが、貯蔵して
いた酒が全部腐って破産
・明治末まで、定型俳句を作っていたが、
<自由律の俳人荻原井泉水>に共鳴して師事
・単身上京するが、関東大震災の混乱に巻き込まれ、
巣鴨刑務所に留置
・大正14年(1925)<妻子を捨てて出家>(43歳)
熊本県の観音堂守となる
→放蕩の血筋への意識
「父によう似た 声が出てくる 旅はかなしい」
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right★発問☆解説ノート★
〈参考…作者について〉(続き)
・翌年、一笠一鉢の行乞放浪の旅に出る
九州・四国・山陽・山陰などを漂泊
俳句即生活という境涯俳句が特色
「わけ入っても わけ入っても 青い山」
「へうとして 水を 味わふ」
「ほろほろ 酔うて 木の葉ふる」
・昭和7年(1932)〜14年
山口県小郡・湯田・松山に転住(50〜57歳)
・その後<全国各地を俳句と酒と女との漂泊の旅>に
生きる
「鉄鉢の 中へも 霰」
「うしろすがたの しぐれて ゆくか」
「あるけばかっこう いそげばかっこう」
「おちついて 死ねそうな 草枯るる」
・『層雲』の俳人で、世俗を捨てて独居生活の生涯を
送った尾崎放哉とは面識を持たなかったが、影響を
受け、
「鶏啼いて わたしも一人」の句を詠む
・昭和15年(1940)10/11 一草庵にて、泥酔頓死
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