left★板書(+補足)★
「現代文授業ノート」(普通クラス)
   (近代俳句) 高浜虚子

〈作者〉
・明治7(1874)〜昭和34(1959)
明治30年代・大正・昭和
  俳句雑誌「ホトトギス」を主宰して
  近代俳句の主流となり、子規の<写生>を継承し
  「花鳥諷詠」を俳句の本質とする一貫した姿勢
・句集 『虚子句集』『五百句』など

right★発問☆解説ノート★
(俳句)2016年3月〜8月
              (2020年3月改)


・〜85歳

・平淡な写生+伝統趣味(花鳥諷詠)の俳風
・人間は自然の中の一存在で自然によって生かされて
 いるのだ、という自然随順の自然観・人生観が根本
 にある

left★板書(+補足)★
白牡丹と  いふといへども  紅(こう)ほのか
=白牡丹と言うけれども、赤みが(どこか)ほんのり
 とさしていることだ

〈出典〉
大正14年(1925.5/17)大阪毎日新聞社主催の俳句
大会で題詠として作られた(初出)(作者51歳

〈主題〉(感動の中心・心境)
白い牡丹を<よく眺めると微かに紅色>がさしていた
       (対象の凝視による発見→客観写生

〈鑑賞〉(補足)
・ポイントは2つ
 @発見
   白牡丹→気品・清楚
     +
   緋牡丹→艶麗
 A詠みぶり
   上六・中七の緩徐の調べと
   下五の止めで引き締める→序破急

right★発問☆解説ノート★
・白牡丹→(はくぼたん)季語(夏)→上六字余り
    →優雅さ・気品・ふっくらとした量感
・中七→平仮名表記→ゆったりとした言い回し→逆接
・ほのか→形容動詞、語幹→詠嘆
・下五の止め→一句全体の調べを引き締める

・具体的な実在感


☆ふっくらと優雅で気品ある白牡丹のイメージに、
 微かな艶が加わり、更に魅力あるものになる











left★板書(+補足)★
流れゆく   大根の葉の   早さかな
=(小川の近くを歩いていると、上流で誰かが採れた
 大根を洗っていたのか、透明な水面を)流れてゆく
 (青々とした)大根の葉(が見えた。その速さ)の
 何と速かったことか

〈出典〉(初出)
昭和3年(1928.11/10)東京都世田谷の九品仏での
句会帰途の作(作者54歳)。『ホトトギス』五百号
の記念に出版した『五百句』(昭和12.5/27)所収

〈主題〉(感動の中心)
<透明な小川を緑色の大根の葉が速く流れてゆく>
という平凡な日常の一瞬の光景
             (を客観写生したもの)

〈鑑賞〉(補足)
・お寺での句会の帰りに、小川の近くで偶然目にした
 一瞬の光景を詠んだ句
・(虚子の自句自解)
 「フトある小川に出で、橋上に佇むでその水を見る
 と、大根の葉が非常な早さで流れてゐる。之を見た
 瞬間に今までたまりにたまつて来た感興がはじめて
 焦点を得て句になつたのである。その瞬間の心の状
 態を云へば、他に何物もなく、ただ水に流れて行く
 大根の葉の非常な早さといふことのみがあつたので
 ある。」

right★発問☆解説ノート★
・大根→季語(冬)
・かな(詠嘆・終助詞・切れ字)
・九品仏=東京世田谷にある浄真寺(浄土宗)に安置
 された9体の阿弥陀如来像、または浄真寺の通称








・季題に代表される対象物(自然)と作者とが同一に
 融合したような状態を客観写生したもの





・この句について、文芸評論家の山本健吉は
 「ホトトギス流の写生句の代表作とされるが、よく
  言えば写生句であり、悪く言えば痴呆的俳句であ
  る」と評した
 この評に対し虚子は
 「俳句を作らないものが俳句を理解できるはずはな
  い」と応酬したという


left★板書(+補足)★
手毬(てまり)唄  かなしきことを  うつくしく
=(女の子たちが毬つきを楽しんでいるらしい)
 手毬唄(が聞こえてくることだ)だなあ。
 悲しいことを(歌っているものなのに)
 (子供たちは気にすることなく、無心に)美しく
 (可憐に歌っていることだ)なあ

〈出典〉
昭和14年(1939.12/1)丸之内倶楽部で開かれた
「大崎会」での句(作者65歳)。初出は昭和15年
12月号。『五百五十句』(昭18)所収

〈主題〉(感動の中心)
<手毬歌を無心に歌う童女たちのあどけなさ>
             (を詠んだ生活的な句)

〈鑑賞〉(補足)
・即興句という虚子の特色→無技巧の技巧
・表現の特色→平仮名表記・連用中止法
 →優しく何となく憂いある余情を表現
  @子供たちの無心に歌う美しい声(を表現)
  A歌の内容を知る大人の哀感  ( 〃 )

right★発問☆解説ノート★
・手毬=正月に女の子の遊ぶ道具。手で地面について
 歌を歌い、数をついたら相手に毬を渡して遊んだ。
 →季語(新年)
・かなしき→童歌にも、悲しい内容のものがあった
・うつくしく(唄う)→子供たちの歌声








☆悲しい内容の手毬歌を、毬つきのリズムに合わせて
 無心に可憐な声で歌う童女たちのあどけない様子








left★板書(+補足)★
山国の  蝶を荒(あら)しと  思はずや
=山国の(自分を訪ねて来てくれた人たちと散歩して
 いると、春の蝶が何とも勢いよく飛び回っていた。
 それで、あなた達も)蝶を荒々しい(感じがする)
 と思わないか(と呼びかけた)。

〈出典〉
昭和20年(1945)信州小諸に疎開していた頃の作
「昭和20年5月14日、年尾・比古来る」と自注がついている(作者71歳)。 初出は『ホトトギス』
(昭21.五月号)、『六百句』(昭22)所収

〈主題〉(感動・心境)
戦時中の疎開先を訪ねてくれた人たちに
<山の蝶の荒々しさへの驚き>
          (を即興で詠んだ生活的な句)

〈鑑賞〉(感想・補足)
・3人だけで句会をした時の即興句だが、生き生きと
 したその時の息遣いがうかがえる
蝶は女性的で優雅なものとばかり思っていたから、
 その荒々しさに驚いたのだろうが、知人が遠くまで
 訪ねて来てくれたという心の弾みもあったのだろう

right★発問☆解説ノート★
・山国→信州小諸
・蝶→季語(春)
・荒し=荒々しい→勢いよくひらひらと飛び回る様子
・ず(打消)や(疑問・係・切れ字)→同意を求める














・即興俳句・挨拶の句は、虚子が最も得意とする所で
 「初蝶来 何色と問ふ 黄と答ふ」という問答体を
 巧みに生かした句もある



left★板書(+補足)★
去年(こぞ)今年  貫く棒の  如きもの
=(多忙な中に年が暮れ、のどかな新年となった。)
 (しかし)去年も新年も(自分には、固く直線的な
 一本の)貫く棒のようなもの(である。生活や心境
 にさして変化はなく、全く同じような日々である。
 今までと同じ道を歩んで行くだけ)だ。

〈出典〉(…初出)
昭和25年(1950)12月20日
新年の放送のために作られた句(作者76歳
『六百五十句』(昭30)所収

〈主題〉(感動・心境)
(晩年までの作句活動などの日常性を背景として)
固く直線的な一本の棒が貫き通り、去年も今年も何の
変化もないという、<自分の生活への確かな自信>

 (変化なく過ぎていく歳月を詠んだ、生活的な句)

〈鑑賞〉(感想・補足)
・「貫く棒の如きもの」という比喩の実態は、作者の
 日常の生活・態度・心情などに於ける変わることの
 ない時間の流れであろう。

right★発問☆解説ノート★
・去年今年=多忙な中に年が暮れ、長閑な新年となる
 →季語(今年)
・貫く棒=(初めから終わりまでを)力強く突き通す
     固く直線的な一本の棒のようなもの→比喩
 →去年と今年を貫いて変わらない日常の生活と態度
 →平凡だが、今までの自分の生活への確かな自信













・78歳を迎える虚子は、書斎にこもって作句活動を
 するのが毎日の日課であり、それを背景とした晩年
 の揺るぎない精神生活と確かな自信が詠まれている

left★板書(+補足)★
〈参考…作者について〉

明治7(1874)〜昭和34(1959)年。
子規に師事して俳句の道に入り、雑誌「ホトトギス」
を主宰
。多くの俳人を文壇に登場させた。

本名は清。虚子の俳号は、本名に因んで子規が命名。
伊予尋常中学の級友河東碧梧桐を介して、郷土の先輩
子規と文通、俳句の世界に入った。
明治27年、京都第三高から仙台第二高へ転じたが、
文学への志望が強く、碧梧桐と共に退学、上京。子規
の下で日本派俳句の進展に努めた。
翌28年、子規より俳句革新の後継者となるよう切望
されたが、固辞した。
31年、松山で刊行されていた「ホトトギス」の経営
を引き継ぎ
、東京で刊行。以後、「ホトトギス」
は虚子の文芸活動の本拠地となった。
38年、夏目漱石が『吾輩は猫である』を「ホトトギ
ス」に連載。虚子も刺激を受け、小説を志して一時期
俳句から遠ざかった。

その間、虚子と子規門下の双璧をなしていた碧梧桐の
新傾向俳句運動が、定型破壊・季題軽視へと進展する
に及び、
大正2(1913)年、虚子は伝統の護持を意図して
俳壇に復帰、自ら「守旧派」をもって任じ、村上亀城
・飯田蛇笏らの個性豊かな俊英を育てた。

right★発問☆解説ノート★
〈参考…作者について〉(続き)

昭和2(1927)年、俳句の本質を花鳥諷詠と定め
客観写生をその方法とする純粋俳句論を唱え、水原秋 櫻子・山口誓子・中村草田男らを世に送って、自らも
一代の傑作「流れゆく大根の葉の早さかな」(昭3)
を生んだ。

昭和6、秋櫻子の『馬酔木』が独立し、反ホトトギス
の態度を鮮明にしてより、続く新興俳句運動、それを
批判する人間探求派の出現などへ展開していく趨勢の
の中で、「ホトトギス」の花鳥諷詠は常に批判され、
受身の立場にあったが、虚子はその主張を墨守して、
自らを完成させていった。

その姿勢は、戦中・戦後も一貫しており、終戦直後の
昭和21年、桑原武夫「第二芸術」論によって、俳壇
が大きな衝撃を受け、改めて俳句の近代性が問い直さ
れた時も、虚子は動揺することなく黙殺した。
近代文学が時代と個の相克・苦悩を描くなら、俳句は
自然を通しての和楽の世界を示すものというのが虚子
の主張である。

子規の近代化の方向を受けながら、これを修正して、
俳句の「花鳥諷詠」の特殊文学を規定し、それを身を
もって実践した虚子の生涯は、近代の側からの褒貶
超えて、日本人の一つの典型を示すものであった。

貴方は人目の訪問者です。