left★板書(+補足)★
〈参考…作者について〉
明治7(1874)〜昭和34(1959)年。
子規に師事して俳句の道に入り、雑誌「ホトトギス」
を主宰。多くの俳人を文壇に登場させた。
本名は清。虚子の俳号は、本名に因んで子規が命名。
伊予尋常中学の級友河東碧梧桐を介して、郷土の先輩
子規と文通、俳句の世界に入った。
明治27年、京都第三高から仙台第二高へ転じたが、
文学への志望が強く、碧梧桐と共に退学、上京。子規
の下で日本派俳句の進展に努めた。
翌28年、子規より俳句革新の後継者となるよう切望
されたが、固辞した。
31年、松山で刊行されていた「ホトトギス」の経営
を引き継ぎ、東京で刊行。以後、「ホトトギス」
は虚子の文芸活動の本拠地となった。
38年、夏目漱石が『吾輩は猫である』を「ホトトギ
ス」に連載。虚子も刺激を受け、小説を志して一時期
俳句から遠ざかった。
その間、虚子と子規門下の双璧をなしていた碧梧桐の
新傾向俳句運動が、定型破壊・季題軽視へと進展する
に及び、
大正2(1913)年、虚子は伝統の護持を意図して
俳壇に復帰、自ら「守旧派」をもって任じ、村上亀城
・飯田蛇笏らの個性豊かな俊英を育てた。
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right★発問☆解説ノート★
〈参考…作者について〉(続き)
昭和2(1927)年、俳句の本質を花鳥諷詠と定め
客観写生をその方法とする純粋俳句論を唱え、水原秋
櫻子・山口誓子・中村草田男らを世に送って、自らも
一代の傑作「流れゆく大根の葉の早さかな」(昭3)
を生んだ。
昭和6、秋櫻子の『馬酔木』が独立し、反ホトトギス
の態度を鮮明にしてより、続く新興俳句運動、それを
批判する人間探求派の出現などへ展開していく趨勢の
の中で、「ホトトギス」の花鳥諷詠は常に批判され、
受身の立場にあったが、虚子はその主張を墨守して、
自らを完成させていった。
その姿勢は、戦中・戦後も一貫しており、終戦直後の
昭和21年、桑原武夫「第二芸術」論によって、俳壇
が大きな衝撃を受け、改めて俳句の近代性が問い直さ
れた時も、虚子は動揺することなく黙殺した。
近代文学が時代と個の相克・苦悩を描くなら、俳句は
自然を通しての和楽の世界を示すものというのが虚子
の主張である。
子規の近代化の方向を受けながら、これを修正して、
俳句の「花鳥諷詠」の特殊文学を規定し、それを身を
もって実践した虚子の生涯は、近代の側からの褒貶を
超えて、日本人の一つの典型を示すものであった。
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