left★板書(+補足)★
「現代文授業ノート」(普通クラス)
   (近代俳句) 正岡子規

〈作者〉
・慶応3(1867)〜明治35(1902)
明治30年代
 脊椎カリエス(肺結核)で病床にありながら
 <写生・万葉調>により<俳句・短歌の革新>
・句集 『寒山落木』など
 歌集 『竹の里歌』など
 随筆 『墨汁一滴』『病床六尺』など



right★発問☆解説ノート★
(俳句)2016年3月〜8月
              (2019年3月改)

・〜35歳
・明22喀血(明29脊椎カリエス、病床に親しむ)
・明25『獺祭書屋俳話』を新聞「日本」に連載
    俳句の革新を説く(→写生説)
・明30俳句雑誌「ホトトギス」創刊
    俳句の革新運動を展開
・明31「歌よみに与ふる書」発表、短歌革新も唱え
    『古今和歌集』を排し『万葉集』を尊重する
    (万葉調の歌風を復興・写生説)
 明31根岸短歌会を結成

left★板書(+補足)★
柿くへば   鐘が鳴るなり|   法隆寺
=(旅をしていて奈良の法隆寺に立ち寄った。)柿に
 かぶりつくと、(その時ちょうど寺の)鐘が趣ある
 音で響き渡ったのである。法隆寺だなあ。


〈出典〉
明治28年(1895)の作、「法隆寺(門前)の茶店
に憩ひて」という句碑もある(作者28歳

〈主題〉(心情)
好物を食べながら感じる<古都の趣>

〈鑑賞〉(補足)
・年譜に「10/19松山発、広島・須磨を経て大阪に至
 り奈良に遊ぶ、10/30帰京」とある。
・途中の広島で腰痛を発し、歩行が困難に

right★発問☆解説ノート★
・柿→季語(秋)・ば(と)・なり(断定)→句切れ
・法隆寺=日本最古の木造建築・いにしえの雰囲気
    奈良名産の御所柿の産地→体言止め(詠嘆)
面白い取り合わせ
 @旅の途中の茶店で好物の柿を食べていると
 A古都の秋の日のしみじみとした趣
 →秋の恵み+古い鐘の音=情景→旅の楽しさ




・旅→柿+古都の趣




・不治の病の脊椎カリエスの初め

left★板書(+補足)★
いくたびも   雪の深さを   尋ねけり
=(先程から雪が降り続いている。もう相当積もって  いるだろう。病床にあって起き上がる事の出来ない  私は)幾度も幾度も、雪の深さ(が今頃はどの位に  積もっているのか)を、家人に尋ねてみたことだ。

〈出典〉
明治29年の作、「病中雪四句」と前書きした連作の
第二句(作者29歳
「雪ふるよ 障子の穴を 見てあれば」の次に詠む

〈主題〉(情景・心情)
(雪を見たいという)童心のような浮き浮きした心
弾みと、それが<満たされないもどかしさ>

〈鑑賞〉(補足)
・日常生活の一断面を淡々と客観的に詠み、
 さりげなく表現    (→作者の境涯・心情)
 (生活的な句→人を童心に帰させる雪への執着)



right★発問☆解説ノート★
・雪→季語(冬)→少年時代への郷愁を呼び起こす力
・…けり(詠嘆=…ことだ)→切れ字→句切れ
☆いくたびも
 @病床にあって外の雪景色が見られないもどかしさ
 A童心に戻ったように知りたくてたまらない気持ち
・家人→同居している母や妹(病臥の床から尋ねる)

・1896年
・他のは「雪の家に 寝て居ると思ふ ばかりにて」
    「障子明けよ 上野の雪を 一目見ん」

・背景→病床+雪
・幾度も積雪量を尋ねるという行為だけを叙した表現
 の背後から、子規の心情が読み取れる


・1月はわずかに歩行できたが、2月には腰が腫れて
 痛みが激しく、ただ横に寝ているだけで身動きさえ
 出来ない状態になっていた。不治の病という自覚は
 あっても、病気はまだ中期で、諦念には達していな
 かった→大雪という事で童心のように心が弾む

left★板書(+補足)★
三千の   俳句を閲(けみ)し  柿二つ
=三千もの(多くの門人たちの)俳句を閲覧し(選考
 を終えて枕頭に目をやると、何とも美味しそうな)
 柿が二つ(見えたの)だなあ。(さあ食べるぞ)



〈出典〉
明治30年(作者30歳)の作、『俳句稿』所収
『新俳句』(明31に出版する日本派最初の総合句集
正岡子規閲=子規選俳句稿)の句稿に目を通し終えた
時の事を詠んだもの。「ある日夜にかけて俳句函の底
を叩きて」との前置き

〈主題〉(心情)
何ヶ月もかかって門人たちの原稿を閲覧して、
ようやく俳句の選考を終えた<疲労感・安堵感>

〈鑑賞〉(補足)
・子規は無類の柿好きだったが、柿は京都在住の禅僧
 が贈ってくれ、食べ尽くして残った最後の2個で、
 妹が運んでくれたもの。
 俳句を閲覧し終えてほっとした疲労と安堵の目に、
 まるで褒美として美味しそうに置かれて映っている
 イメージがあり、温かい安らぎや労いといった感じ
 がある。
(生活的な句→膨大な俳句の選を終えた時の解放感)

right★発問☆解説ノート★
・柿→季語(秋)
・閲(けみ)す=閲覧して調べる/選ぶ
数の対比(取り合わせ)→同じ価値
 @三千=数が多い(実数ではない)
 →膨大な仕事と、それを終えた時の疲労感・安堵感
 A柿二つ=病床の枕頭に置かれた細やかなご褒美
 →「二つ」は孤独感がなく、温かい落ち着きがある

・1897年










・枕元の函に投げ入れられてある山ほどもある俳句稿
 に仰臥したまま目を通し、朱筆を入れているうちに
 夜も更ける。
 やっとの思いで最後の一枚を片付け疲労感と安堵感
 強く感じるが、先ほど妹が枕頭に置いてくれた柿が
 2つ、美味しそうな良い色をしているのが見える。
 俳句の選考を終えるまではと、自分でお預けにして
 おいたものだ。さあ食べる事ができるぞ。

left★板書(+補足)★
糸瓜(へちま)咲て  痰のつまりし  <仏かな>
=(庭先の棚のあちこちに)糸瓜(の黄色い花々)が
 咲いて(いるが、その下で病臥している自分は薬と
 する糸瓜の水も効かなくなり)痰がつまっ(て息も
 出来なくなっ)た(生きながらにして)仏様(同然
 になってしまった
こと)だなあ。


〈出典〉
明治35年、9/21『日本』初出(作者35歳
<絶筆三句>の中の第一句。他の二句は
  痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず
  をととひの へちまの水も 取らざりき
明治35年9月19日午前2時、35歳で死去

〈主題〉(心情・心境)
自分の死を悟り、既に<自分を仏として達観>している 心境(諦念の境地)

〈鑑賞〉(補足)
・前日9月18日の朝10時頃、(河東碧梧桐・高浜
 虚子も侍したが、)妹を枕頭に呼び、
 病床の唯一の慰めとしていた草花写生のための唐紙
 に、<絶筆三句>を書きつけた。
・絶筆だが、「仏」「痰一斗」という滑稽で誇張した
 表現は、俳諧の境地に通じて暗さがない。大らかで
 澄んだ心境が感じられる


right★発問☆解説ノート★
・糸瓜→(へちま)季語(秋)・糸瓜の花(夏)→諸説
 →さらした果実からは入浴用のたわしなどを作り、
  茎の切り口から取った粘性の液は、化粧水・咳止
  め薬・痰切り薬
に用いる(ウリ科の蔓性一年草)
 →夏の日除けの為、庭などの棚に作られていたが、
  秋、深緑色の長い実を棚にぶらりと幾つもつける
・…し(過去「き」体)  ・…かな(詠嘆)切れ字
死の直前の自身を客観視→自分を仏になぞらえる

・1902年
・肺結核患者は気管から咳と共に痰が出たりするが、
 病状が悪化して、その痰が気管に詰まって出ない








死の前日(9/18)痰が詰まって死を迎えつつある
 自分はもはや仏同然であると、臨終の床で作られた
 <写生>の句辞世の句
☆病床にあって静かに自己の生を見つめ、死に臨んだ
 自己を客観視し表現する、写生を越えた俳句の精神
 が成就している。
 →淡々とありのままを詠む、悟った者の超然として
  落ち着いた態度が窺える

left★板書(+補足)★
痰一斗(たんいっと) 糸瓜の水も  間にあはず
=(重病で床に臥していると、また咳き込みが襲って
 きた。咳とともに)痰が一斗(も出て息が詰まり
 咳を鎮めて痰を切る薬の)糸瓜の水も(この急場は
 もう)役に立たない




〈出典〉
明治35年(作者35歳)の作、『子規言行録』中の
河東碧梧桐の「君が絶筆」にある句。<子規の絶筆>
明治35年9月19日午前2時に死去、享年34歳

〈主題〉(心情)
<自らの臨終の迫った危篤状態>とその時の思い

〈鑑賞〉(補足)
・前日9月18日の朝10時頃、(河東碧梧桐・高浜
 虚子も侍したが、)妹を枕頭に呼び、
 病床の唯一の慰めとしていた草花写生のための唐紙
 に、<絶筆三句>を書きつけた。
@糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな
A痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず
Bをととひの へちまの水も 取らざりき
(生活的な句→妙薬も役に立たないほど悪化した病)

right★発問☆解説ノート★
・一斗=(いっと)18g→誇張(切迫感・悲痛感)
 →一抹のユーモア(自分を客観視するゆとり?)
・糸瓜→(へちま)季語(秋)
 →さらした果実からは入浴用のたわしなどを作り、
  茎の切り口から取った粘性の液は、化粧水・咳止
  め薬・痰切り薬
に用いる(ウリ科の蔓性一年草)
 →夏の日除けの為、庭などの棚に作られていたが、
  秋、深緑色の長い実を棚にぶらりと幾つもつける
・間にあはず=役に立たない→臨終の迫った危篤状態
         (痰が多量に出て、息が詰まる)
・1902年







☆病床にあって静かに自己の生を見つめ、死に臨んだ
 自己を客観視し表現する、写生を越えた俳句の精神
 が成就している。






left★板書★
〈補足〉…年譜
・慶応3(1867)愛媛県松山にて誕生
・明治6(1873)6歳で父を失う
・明16松山中学を中退、上京して大学予備門に入学
・明23帝国大学哲学科入学
・明24『俳句分類』の大業に着手
明25(25歳)大学中退、日本新聞社に入社
    『獺祭書屋俳話』を新聞「日本」に連載
    俳句革新を唱える
    (月並俳句を否定して、自然を客観的に詠む
     写生
を提唱し、芸術的位置に高める)
・明28日清戦争の従軍、帰国の途中に喀血、以後、
    脊椎カリエスによる病臥の生活
・明30松山で友人が俳句雑誌「ほととぎす」を創刊
    援助、翌31年、東京に移し高浜虚子が編集
    俳句革新運動を展開する日本派の拠点となる
明31歌よみに与ふる書」を新聞「日本」に連載
    短歌革新も唱える
           (写生理論万葉尊重の道)
・明32(1899)自宅で根岸短歌会を結成
・明33内容と形式に作為・修飾・架空を排して、
    平淡滋味のある「写生文」も志す
・明35(1902)没(35歳)
    ↓
※明治20年代→写生を基調とする印象鮮明な句
※晩年30年代→病臥の中で静かに自己と向き合い、
        写生という方法意識を超えて
        日常の生を詠む
right★補足・発問★
・俳句は明治で尽きるのではという前提に立ってその
 可能性を追求し、個人の創作性を重視する観点から
 俳諧の連句は文学ではないと考えて、冒頭の発句を
 完全に独立
させその完結性をもって俳句の出発点と
 すべきだと説く。
 次に、蕪村の句に傾倒して絵画的・視覚的な俳風
 展開して写生の理論を深め、日本派と称せられる。
 →明27「稲刈りて 水に飛び込む イナゴかな)
 (自然の小天地と向き合う中に俳句開眼があった)

・明35カタカナ表記「ホトトギス」となる
→明38漱石「吾輩は猫である」「坊っちゃん」掲載
・高浜虚子・河東碧梧桐を育成
・俳句革新によって得た経験と信念に立脚して
 写生の方法を基礎にした歌風に新生面を開く
 →『古今和歌集』を排し『万葉集』の歌風を復興
・伊藤佐千夫・長塚節ら、多くの俊秀・継承者を輩出
・晩年の随筆『墨汁一滴』(明34)『病床六尺』(明35)
 に成果が生かされる

・「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
・「いくたびも 雪の深さを 尋ねけり」
 「鶏頭の 十四五本も ありぬべし」





貴方は人目の訪問者です。