left★板書★
〈補足〉(…ある遣り取り@)
外界と人間との間にある「精神の中間世界」という言
語の領域を通して、外界は初めて秩序づけられて把握
される(言葉があって初めて世界のすべてが認識され
る)。だが、「精神の中間世界」は言語ごとに違い、
ものの見方も違う(言語や民族が違えば、言葉を通し
たものの見方は違う)。ということは、言語によって
人間や民族のものの見方は支配されていることになる
(同じ言語や文化を持つ者たちが、同じ仲間だという
意識を持つ)。つまり、自分たちこそ最も優秀だとい
う「危険な民族主義思想」が生み出される恐れもある
のだ。従って、我々は、言語は危険な民族主義思想を
生み出すという自覚が、必要である(日本は、文字す
らも漢字やそれが元になった平仮名・片仮名を使うほ
ど、大きな文化的影響を古代から受けた超大国中国が
隣にあったから、言語と結びついた民族主義思想が生
まれることはなかったが)。
〈補足〉(…ある遣り取りB)
言葉によって、人間は外の世界の事物を把握しているのです。だから、言語が違えば世界を違ったふうに見ていて、ものの見方が違うことになります。例えば、アメリカでは「熱い湯」=「hot water」・「冷たい水」=「cold water」であり、「hot」「cold」が付くにせよ、どちらも「water」一語です。しかし、日本では「湯」「水」と二語に区別されています。同様に、アメリカでは「ライス」一語が、日本では「稲」「米」「ご飯」「飯」「ライス」などと区別されます。逆に、日本では「牛」一語が、アメリカでは「ox」「cow」「……」「……」などと幾つもの単語の区別があります。言語が違い民族が違えば、ものの見方が違うので言葉の表現も違うのです。
このように、それぞれに異なる「言語」が、それぞれに異なる「組み立て」を持ち、それぞれに異なる「ものの見方」をもたらし、更にそれぞれに異なる「文化」や「歴史」を形づくっていき、それぞれに個性があって優劣はないのです。例えば、イギリス・フランス・ドイツ・中国・ベトナム……など、それぞれに異なる「言語」があり、それぞれに異なる「ものの見方」「文化」「歴史」があって、時代などにより微妙な違いがあっても大差はなく、それぞれに優劣はないのです。
それぞれに異なる「言語」に、それぞれに異なる「組み立て」「ものの見方」がある、というのは極めて当たり前のことなのですから、礼儀正しく他者を尊重することはあっても、特に関心を持つこともない訳です。「むしろ冷淡」というのは、軽い強調でしかなく、無視してよい表現です。
途中にコーヒータイムがあったので、返信が遅れました。
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right★補足・発問★
〈補足〉(…ある遣り取りA)
言葉が同じで、ものの見方も同じで、文化・思想・皮
膚の色も同じであれば、同じ特別の仲間=同じ民族と
しての意識を持つ、というのは解りますね? 即ち、
言語は自分たちこそが最も優れているという「危険な
民族主義」を生み出す恐れがある訳です。例えば、第
2次大戦前のドイツではこの思想のもとに侵略戦争や
ユダヤ人の大量虐殺が行われました。「言語と民族に
は神秘的なつながりがある」という考え方にドイツ人
は共鳴していた訳ですが、被害者たるユダヤ人達には
警戒すべき考え方であったのです。現在でも、このよ
うな「危険な民族主義思想」を持った国が出現する可
能性はゼロだとは言えないかもしれません。言語を研
究する学者たちは、このような「言語と民族には神秘
的なつながりがある」ということを述べているのです
。平和を願う人々は、普通は否定することが多い思想
でしょう。
ところで、日本のことですが、何千年も前から隣には
中国という政治的・経済的・文化的な超大国がありま
した。遣隋使・遣唐使が派遣され、文化面で大きな影
響を受け、文字すらも中国の漢字や、それ元になって
出来た平仮名・片仮名を用いている訳です。従って、
日本では「言語と民族とが神秘的に結びついた危険な
民族主義思想」が生まれるはずがなかったのです。近
代に、国粋主義思想の影響を受けた政治的な動きや太
平洋戦争などというものがありましたが、「言語と民
族とが神秘的に結びついた民族主義思想」では決して
ありませんでした。これは解りますね?
「ことばの本質の底しれぬ深淵には、危険な民族主義
思想が宿る恐れがある」ことを言語学者は自覚する必
要がある、ということを、筆者は一般論として述べて
いるのです。解りますね?
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