(先生の現代文授業ノート)丸山真男「『である』ことと『する』こと」  
left★板書(+補足)★   
(先生の現代文授業ノート…普通クラス)
   丸山真男「『である』ことと『する』こと」

〈出典〉
昭和33年(1958) 岩波文化講演会 発表(作者44歳)
      (1959)「毎日新聞」連載)
      (1961)『日本の思想』出版

〈筆者〉
・大正3年(1914)〜平成8年(1996)
政治学者
・主な著書 『現代政治の思想と行動』
      『戦中と戦後の間』など

〈概要〉
・思想論(社会論・政治論・日本近代化論)
 →日本文化の閉鎖性を指摘して、日本人の意識構造   や日本の政治・社会・文化・歴史について論ずる
 →第二次大戦後の新たな思想のあり方を問う
・「である」と「する」という対比的な原理により、  日本の近代化の特質と問題点を論じている。
    ↓
「である」論理による価値基準が支配的だった日本
 では、近代になって「する」論理の重要性が増して
 きた。だが、現在は両者が交錯して倒錯する混乱
 生じている。それ故に、「である」価値を蓄積した
 教養人による「する」価値への行動が必要
である。
                (→要約→要旨)


right★発問☆解説ノート★   
(評論)2013年3月(2023年3月改)


※随筆=自己の感想・意見・見聞・体験などを
    筆に任せて自由な形式で書いた文章(随想)
    ↓↑
 評論=物事の善悪・価値・優劣などを
    批評し論じた文章
※評論読解の基本(構成)
 @一般論(常識・具体的話題)の提示
  一般論の否定(問題提起)=筆者の見解,主張(抽象)
 A考察(理由・具体例・絵の説明)  B  〃  
 C結論(主張の確認・補足)
 →対比(二項対立)・類比・比喩・象徴・因果……

成長の著しかった時代(…第二次大戦後15年)
  1955保守・革新の二大政党による体制
  1960日米安保条約の発効と安保闘争
  石炭から石油へのエネルギー転換
  高度成長・所得倍増、カラーテレビ放送の開始
  1964東海道新幹線の開通、東京オリンピック開催

全体の構成 【一】(起)「する」論理の重要性と二つの考え方
        (序論…具体的話題の提示→筆者の見解)
    第一節 「権利の上に眠る者」
    第二節 近代社会における制度の考え方



【二】(承)「である」と「する」の歴史的考察
 @「である」社会の典型としての徳川時代
    第三節 徳川時代を例にとると
    第四節 「である」社会と「である」道徳
 A日本の近代社会の成立と問題性
    第五節 近代社会の業績本位という意味
    第六節 日本の急激な「近代化」と★問題性★
【三】(転)「である」と「する」の価値倒錯の問題
    第七節 「する」価値と「である」価値との倒錯
    第八節 学問や芸術における価値の意味
【四】(結)価値倒錯を再転倒する道
        (結論…筆者の見解)
    第九節 価値倒錯を再転倒するために
left★板書(+補足)★    
〈授業の展開〉
             (価値観・判定基準)
【一】(起)「する」論理の重要性と二つの考え方
        (序論…具体的話題→筆者の見解)

<第一節 「権利の上に眠る者」>

<時効>(民法における制度…具体例)
 ・常識的には、金を貸せば返還されるのが当然だが
          ↓↑      (実は違う)
 <債権者> 請求する行為をせず一定期間が過ぎる
    ↓       ↓
  X請求X 債権(返還を請求する権利)が喪失
    ↓       ↓
 <債務者> 返済しなくてもよくなる
    ↓
 <<権利の上に眠る者は民法の保護に値しない>>
  =債権者である位置に安住して
   請求する行為を怠ると
   債権を喪失する
    ↓         (ロジックの中には)
 ・一民法の法理に止まらない<重大な意味>

<国民の主権>(憲法が保障する自由と権利)
 ・自由と権利は国民の<不断の努力>によって保持
  しなければならない
    ↑ ・基本的人権は
    ↑  人類の多年にわたる自由獲得の成果
    ↑    ↓
 ・自由獲得の歴史的なプロセスを
  将来に向かって投射したもの
    ↓
 ・「時効」と<共通する精神>
  =主権者であることに安住して
   権利の行使を怠ると
   主権者でなくなっている

    ↑   (主権を喪失という事態が起こる)
 ・歴史的教訓
      ・ナポレオン三世のクーデター
      ・ヒットラーの権力掌握

<自由>
 ・ここにも基本的に同じ発想がある
  =自由であることを祝福している間に
   <現実の行使>を怠ると
   自由の実質を喪失しているかもしれない
  =日々 自由になろうとすることによって
   初めて自由であり得る
            ↓
        近代社会の「自由と権利」
        生活の惰性を好む者…にとっては
        荷厄介な代物

▼〈段落まとめ〉
「時効」という民法の講義を聴き、「権利の上に眠る 者」という言葉が印象に残った。近代社会での自由や 権利は不断の努力と現実の行使によってのみ守られる ものであり、安住して不断の行使を怠っていると喪失 してしまう、という一法理に止まらない重大な意味が 潜んでいたのだ。

right★発問☆解説ノート★        


(「する」論理に基づく価値基準の重要性)




・時効=一定時間が経過すれば効力がなくなる
・民法=民衆の財産関係・家族関係に関する法律
・制度=社会での人間の行動などを規制する決まり
・趣旨=文章や話などで言おうとする(肝心な)事柄。 ・債権者=金などを貸した者(返還を請求する権利)
・債務者=金などを借りた者(返還する義務)




・安住=何の心配もなく、落ち着いて住むこと
・ロジック=論理
・法理=法律の原理・理論、根底を流れる根本原則
「である」位置に安住して「する」行為を怠ると、  権利を喪失するというロジックは、「時効」だけで  なく、憲法の「自由・権利」などにも当てはまる




・プロセス=一連の流れ、過程、手順、経過
・投射=(光線や影などを)投げかけること
★自由と権利は、人類が多年にわたり獲得するために  努力を続けてきたのだから、 将来も不断の努力を
 して守って行かなければならない


・主権者=国家の主権を持つ者(→国民→主権在民)
・行使=権利などを実際に使うこと(→監視・投票)
・空疎=見せかけだけで内容や実質がないこと

・クーデター=非合法な武力を行使し政権を奪うこと
・ナポレオン三世=フランスの皇帝(1808〜1873)
・ヒットラー=ドイツでナチスを率いて<独裁政治>
       を行った政治家(1889〜1945)

☆「債権者である位置に安住していると、債権を喪失  する」というロジックと、同じ発想がある
→「権利の上に眠る者」=「債権者である位置に安住   している者」「主権者であることに安住している   者」「生活の惰性を好む者……」
・荷厄介=荷物を持て余し、負担になること
・代物=売買する商品を価値を認めたり、卑しめたり     皮肉ったりするなど、評価をまじえていう語
共通する論理
 「である」ことに安住することがなく
 「する」という不断の努力と現実の行使
  によってのみ、自由や権利は保障される







left★板書(+補足)★    
<第二節 近代社会における制度の考え方>
             (民主主義という制度)
<自由人>            (…具体例)
 自分は自由であると信じている人間は
 かえって(偏見から)自由でない
<逆に>↓↑
 自分が捉われているのを意識している者は
 相対的に自由になり得る(←より自由に…と努力
    ↓     (逆説的な表現=矛盾→真理)
 <これと似た関係…>
<民主主義という制度>
 ・制度の自己目的化(物神化)を不断に警戒し、
  制度の現実の働き方を絶えず監視・批判する
  (姿勢によって初めて生きたものとなり得る)
  =不断の民主化
   によって辛うじて民主主義であり得る
 ・定義や結論よりもプロセスを重視
    ↓
<このように…>
債権は行使することによって債権であり得る
 というロジックは
 近代社会の制度やモラル、物事の判断の仕方を規定
 している「哲学」にまで広げて考えられる
    ↓↓        (…類比構造の展開)

<「である」価値と「する」価値>

◎「プディングの味」      (という例え話は)
 @「属性」として味が内在 していると考えるか
 A現実の行為を通じて味が検証 されると考えるか
    ↓              (…比喩)
 という、社会組織や人間関係や制度の価値判定の
<<二つの極を形成する考え方>>が示されている
 =@「である」論理・価値 (を重視する考え方)
  A「する」論理・価値  (    〃    )
    ↓
    ↓
<近代精神>のダイナミックス
    ↑   ↓   (近代化、価値観の変革)
    ↑ ・身分社会を打破し
    ↑ ・あらゆるドグマをふるいにかけ
    ↑ ・「先天的」な権威に対し
    ↑ ○現実的な機能と効用を「問う」
 「である」論理・価値から「する」論理・価値への
 <相対的な重点の移動>
  (によって生まれた)
 =to be or not to be → to do or not to do
  (ハムレット時代)   (近代社会)
    (身分社会・権威から、目的・能力重視へ)
    ↓
<勿論>
〇「である」ことに基づく組織、価値判断の仕方は
 将来もなくなるわけではなく、
「する」ことの原則が、全ての領域で無差別に
 謳歌されてよいものでもない
    ↓ (近代は「する」論理がより重要だが)
<しかし>二つの図式を想定することによって
 @「民主化」の実質的な進展の程度とか
  制度と思考習慣のギャップとかいった
  事柄を測定する一つの基準を得ることができる
 Aある面では非近代的で他の面では過近代的である
  <現代日本の問題>を反省する手がかりになる

▼<段落まとめ>
「である」論理・価値と「する」論理・価値は、社会 組織や人間関係や制度を価値判定する二つの対比的な 考え方として想定できる。身分社会や先天的な権威に 対し現実的な機能と効用を問う近代精神は、前者から 後者への相対的な重点の移動により生まれたもので、 この二つは現代日本の問題を反省する基準となる。

right★発問☆解説ノート★        
☆「自由と権利」→「民主主義」という「制度」

☆自分の思考や行動を不断に点検・吟味するのを怠り  がちで、より自由に認識しようと努力しないから
 →<不断の努力と現実の行使>=「する」論理
・相対的=他との比較の上に成り立つ様子や評価



≒物神化=本来人間が作り出した手段でしかない物を
     神の如き絶対的な存在(目的)と見なす
こと
★人間の為に作った制度が、制度自体の維持が目的と  なって、人間を支配して不幸にするようになること
 →共産主義も、本来は人間が幸福に生きて行くため   の制度のはずだが、制度を維持するために自由や   権利が奪われ互いに殺し合うようになる事もある
・内奥=内部の奥深い所

☆時効・主権・自由・民主主義……と考察してみると  共通する論理がある→「する」論理の重要性

・モラル=倫理・道徳





・プディング=プリン
・属性=その人や事柄が持っている性質や特徴のこと
・検証=(実際に物事に当たって)調べ、仮説などを     証明する/ 事実を確認する/ 確かめること

<物事の価値を判定する基準>となる二つの考え方




・ダイナミックス=力強く生き生きと躍動する原動力
・ドグマ=独断的な考え、宗教の教義
・篩に掛ける=ふるいを使ってより分ける
       条件・基準に合わないものを除外する
・先天的=生まれつき備わっている様⇔後天的
・機能=ある物が備えている働き。個々の役割
・効用=効き目・効果、用途・使いみち

☆(劇中の独白)そうであるべきか、あらざるべきか、
 生きるべきか、死すべきか→行動するか、しないか




☆「である」と「する」という論理・価値は
 どちらも必要なものである
・謳歌=声を合わせて褒めたたえ、歌うこと

☆「である」「する」という価値観の物差し

・ギャップ=隙間・隔たり
・非近代的=身分・権威を過度に重視する考え方
・過近代的=業績・結果を過度に重視する考え方










left★板書(+補足)★      
【二】(承)「である」と「する」の歴史的考察
 @「である」社会の典型としての徳川時代


右のような典型の対照を明瞭にする
    ↓
<第三節 徳川時代を例にとると>

〇歴史的背景…「である」社会の内容・様相・特徴
 ・出生・家柄・年齢などの
  現実の行動によって変えられない要素が
  社会関係において<決定的な役割>を担っていた
    →大名や武士は、身分的な「属性」ゆえに
     先天的に支配するという建前になっていた
    ↓
 =「何であるか」ということが
  (物事の)<価値判断の重要な基準>であった
    ↓
 各人に対して、それぞれに指定された
 <「分」に安んずる>ことが求められた。

▼〈段落まとめ〉
徳川時代は、出生・家柄・年齢などが「何であるか」 という属性が価値判断の重要な基準であり、社会関係 において決定的な役割を担っていたので、人々は各々 の「分」に安んずることが求められた。

right★発問☆解説ノート★      
(二つの考え方の歴史的考察)


☆「である」と「する」という対極的な二つの考え方












・分(ぶん)=各人に分け与えられたもの
      身分・責任・性質・性別・年齢など
・安んずる=安心する、満足する、甘んずる
      与えられたものをそのまま受け入れる






left★板書(+補足)★      
<第四節 「である」社会と「である」道徳>

  (身分社会)
〇こういう社会でコミュニケーションが成り立つには
 相手が何者であるのか外部的に識別
 されることが第一の要件
となる
      →身分による振る舞う型が決まっている
      →服装・身なり・言葉遣いなどで
       相手の身分(何者であるか)が分かる
      →相手に対する作法の見当がつく
        ↓
      →「らしく」の道徳に従って
       話し合いは自ずから軌道に乗る
    ↓
<従って>  (公共道徳)
アカの他人同士のモラルは発達しなかった
    ↓↑
 ・儒教道徳は典型的な<「である」モラル>である
    ・五倫(君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友)
     →その中の四つは縦の上下関係で、
      朋友だけは横の関係。だが、
      他人同士の横の関係は儒教にはない
        ↓
 ・(儒教が人間関係のカナメと考えられている)
  典型的な<「である」社会>であった。
    ↓
<これに対し>
〇アカの他人同士で関係を結ぶ必要が増大してくると  モラルも「である」道徳だけでは済まなくなる

▼〈段落まとめ〉
徳川時代のような「である」社会では、出生・家柄・ 年齢などが「何であるか」という属性が価値判断する 重要な基準となり、身分に応じて振る舞いの型などが 決まっていたので、相手が何者であるのかが外部的に 識別されれば、コミュニケーションは自然に成立し、 赤の他人同士の公共のモラルは必要なかった。

right★発問☆解説ノート★      







☆出生・家柄・年齢などが「何であるか」
 →決定的な役割→価値判断の重要な基準
 →「分」に安んずる
 =各々の身分に指定された道徳(作法)に従って
  振る舞い、話し合う
・軌道に乗る=物事が予想・計画した通りに
       順調に進んで行くようになる



・儒教=孔子(前551〜前479)を祖とする中国の
    思想。個人の道徳的修養を重んずる。
    江戸時代の日本でも広く信奉(シンポウ)された
・五倫=儒教でいう、人の守るべき五つの人間関係の     秩序。君臣の義、父子の親、夫婦の別、兄弟    (長幼)の序、朋友の信。
・序=物事の順序・秩序・始まり、発端・糸口
・朋友=「朋」は同門の友、「友」は同志の友













left★板書(+補足)★      
〈XXXX補足…省略部分〉
※教科書本文は原文(講演)の省略が多く、形式段落の
 関係が読み取り辛い所があるので、一部を補う??

(第五節の頭)「する」組織の社会的擡頭……
    ↓
組織や制度の性格が変わると、状況によって違った役 割を演じなければならなくなり、人間関係がまるごと の関係ではなく、役割関係に変わってゆく。
    ↓
(小見出し)業績本位という意味
    ↓
「である」論理から「する」論理への推移は、
素性に基づく人間関係にかわって、
何かをする目的で取り結ぶ関係や制度の比重が増す
社会過程の一つの側面に他ならない。
    ↓
目的活動に応じて分業・分化する(機能集団)
    ↓
赤の他人同士の間に関係を取り結ぶ必要が増大する。
(組織や制度が分化して、人間関係が多様になる)
    ↓
人間は状況によって色々違った役割を演じる
    ↓             (役割関係)


right★発問☆解説ノート★      




☆近代社会の人間関係は、「する」原理を基本として  いて「何者であるか」より「何をするか」が重要で  ある。社会は重視する機能に応じて各々が分化して  ゆき、一つの社会の中にあっても求められる機能に  よって人間は多様な関係の中に生きることになり、  各々の場面で必要な役割を演ずることになる。

left★板書(+補足)★      
【二】(承)「である」と「する」の歴史的考察
 A日本の近代社会の成立と問題性


<第五節 近代社会の業績本位という意味>
               (近代社会の成立)
<「である」論理から「する」論理への推移>
        ・生産力が高まり、交通が発展して
        ・社会関係が複雑多様になる
            ↓
    ・家柄・同族といった素性に基づく人間関係
    (に代わって)
      ↓↓
 ・何かをする目的の限りで取り結ぶ関係や制度
  (の比重が増す)
  =機能集団(会社・政党・組合・教育団体など)
   の組織  (←「すること」の原理に基づく)
  =(団体内部の)地位や職能の分化
   も仕事の必要から生まれたもの
 ・(会社の上役や団体のリーダーの)「えらさ」は
  上役である(からでなく)
    ↓
  <業績>(が価値を判断する基準となる)

〇武士は行住坐臥つねに武士
    ↓↑<しかし>
 会社の課長は   (まるごとの人間関係でなく)
 仕事という側面についての上下関係だけ
   (命令服従関係→仕事以外は普通の市民関係)
   (「すること」に基づく上下関係ならば当然)
    ↓        (もし日本でこうでなく)
 ・娯楽や家庭の交際にまで
  会社の「間柄」が付きまとう(ならば)
    ↓
  <職能関係>が<身分的>になっている
 (「する」論理→「である」社会の関係)

<こういう例で…>
〇「する」社会と「する」論理への移行は
 (全ての領域に同じテンポで進行するのでもない)
    ↓
 ・領域による落差
 ・組織の論理と人々のモラル(倫理)との食い違い
     (同じ近代社会といっても価値観が混在
    ↓
 <様々のヴァリエーション>が生まれて来る

▼〈段落まとめ〉
「である」論理から「する」論理へと推移して、近代 社会が成立すると、生産力が高まり交通が発達して、 社会関係も複雑多様になり、目的に応じて分業分化が 進んで人間関係も状況によって違う役割を担うように なり、業績が価値を判定する基準となるが、全て同じ テンポで進行するのでなく、同じ近代社会といっても 様々のバリエーションが生まれた。

right★発問☆解説ノート★      
※第五節の頭に、「『する』組織の社会的擡頭…」と  あり、省略部分の後「業績本位という意味」という  小見出しがあって「……推移は」と本文に続く
「する」論理・社会への移行)  (…対比構造)











・職能=職業・職務上の能力、その職業に固有の機能
・封建社会=身分に基づく上下関係を重視して
      個人の意思を軽視する社会 →江戸時代
☆封君主の「えらさ」は、先天的な「である」論理に  基づいていて能力に関係ない。判断する次元が違う



・行住坐臥=日常の立ち居振舞い、いつ如何なる時も
 →行=歩く、住=止まる、坐=座る、臥=寝る
公私の区別がない身分的な人間関係ではない
・事理=事の道理・道筋
☆近代社会の人間関係は、「する」原理を基本として  いて「何者であるか」より「何をするか」が重要で  ある。社会は重視する機能に応じて各々が分化して  ゆき、一つの社会の中にあっても求められる機能に  よって人間は多様な関係の中に生きることになり、  各々の場面で必要な役割を演ずることになる。



☆「である」→「する」・「属性」→「機能」の変化  は、経済の領域では早く現れたが、政治の領域では  滲透が遅れがちのようだ(?)
☆非近代的な「である」価値観の根強い所もあれば、  「する」価値観に基づく進歩的な所もある
☆組織の論理は業績重視であっても、現場のモラルは  古い「である」価値観のままである所もある

・ヴァリエーション=変種の意味、変化
☆次節の日本の近代社会を考える伏線









left★板書(+補足)★      
<第六節 日本の急激な「近代化」と問題性>
           (日本の近代社会の問題性)

〇福沢諭吉「日々のをしへ」(の一節を引用)
 ・貴き人=本を読み物事を考えて、世間に役に立つ   ↓↑  難しき事をする   (「する」価値)
 ・賤しき人=大名・公卿・侍などとて形は立派にて
       も
、先祖代々から持ち伝えのある故に
       て、正味は(易き事をする)賤しき人
               (「である」価値)
    ↓

<近代日本における価値観の混乱>

〇「である」価値から「する」価値へという
 価値基準の歴史的な変革
    ↓
 @近代日本のダイナミックな躍進を可能にした
  <けれども同時に>       (→問題性)
 A日本の近代の<宿命的な混乱>をもたらした
    ↓
  =「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら
  <<「である」価値が強靭に根を張り>>
      「する」原理を建前とする組織が
      「である」社会のモラルによって
      セメント化されて来た
    ||
〇(伝統的な「身分」が急激に崩壊しながら)
 自発的な集団形成と自主的なコミュニケーションの  発達が妨げられ、社会的基礎が成熟しない
    ↓
 ・「うち」のメンバー意識と「うちらしく」の道徳   が通用する<閉鎖的な「うち」的集団>を形成
    ・外では「である」社会の作法は通用しない      「あかの他人」との接触が待ち構える
        ↓
    ・様々の「うち」的集団に関係しながら
     「場所がら」に応じて色々に振る舞い方を
     使い分けなければならなくなる
    ↓           (価値観の混在)
    ↓  (急激な近代化により、行動様式が)
<<「である」と「する」のゴッタ返し>>の中で
 (近代の日本人は)ノイローゼ症状を呈している
      (明治末年、夏目漱石は見抜いていた)

▼〈段落まとめ〉
「である」から「する」への価値基準の歴史的な変革 は、近代日本のダイナミックな躍進を可能にしたが、 急激な近代化だったために、宿命的な混乱をもたらす こととなった。「する」価値が猛烈に浸透する一方、 旧来の「である」価値が強靭に根を張る閉鎖的な集団 が乱立する、「である」と「する」のゴッタ返し中で 近代の日本人はノイローゼ症状を呈していたのだ。

right★発問☆解説ノート★      

☆「する」の問題点(→第三段)
・福沢諭吉=(1834〜1901)思想家・評論家・教育者
 「日々のをしへ」は、著書『学問のすすめ』を自分  の子供のために平易に書き改めたもの
・明治維新=1860年代後半の、徳川幕府から明治政府       への政権交代と、それに伴う諸改革
☆「貴き人」とは、江戸時代には身分が高い人だった  が、明治時代は能力や業績がある人のことである
「である」価値の否定、「する」価値の肯定







・ダイナミックな=力強く生き生きと躍動する
☆日本の近代化や民主化は、開国や終戦による外から  と上からの急激な変革であった


・強靭=(なめし革のように)強くて粘りがある
☆「する」原理を基本とする組織が旧来の「である」
 社会の価値とモラルという身分的属性
に妨げられて  固定化され、正しく機能できなくなってきた

☆旧来の「である」価値・モラルが残存


集団特有の習慣や行動基準がある「である」社会の  身分的な道徳や作法が通用するまるごとの人間関係
 が要求される前時代的な集団。例えば、社長や重役  だから、敬われて厚遇されるべきだと考えたりする
 →様々のヴァリエーションの一つ   (問題性)

身分社会の「である」価値や道徳が通用する閉鎖的
 な集団の一員
となっている一方で、公共道徳が必要  な「あかの他人」同士の横の関係にも対応する必要  があった
・ノイローゼ=心理的な要因で、精神状態が不安定に        なること
※講演『現代日本の開化』(明治44(1911)年)
 →明治日本の置かれていた国際情勢と急激な近代化










left★板書(+補足)★        
【三】(転)「である」と「する」の価値倒錯の問題
    (現代の「する」価値の倒錯という問題性)

<第七節 「する」価値と「である」価値との倒錯>

この矛盾は      (=価値観の混在・混乱)
 ・戦前は、「臣民への道」という行動様式への帰一
   ↓  によって、辛うじて弥縫されていた
 ・戦後は、文明開化以来かかえてきた<問題性>
  (現代)  爆発的に露わになった
      ・「国体」という支柱が取り払われる
      ・「大衆社会」的諸相が急激に蔓延する
  →厄介なのは「前近代性」の根強さだけでない
    ↓   (閉鎖的な「うち」的集団を形成)

▼より<厄介なのは、「する」価値>
 必要な所で、それが欠けているのに
    ↓
 <必要でない面で効用と能率原理が進展>している
    ||          (点である→倒錯)
<例> ||
〇それは大都市の消費文化において甚だしい
 @住居の変化、日本式宿屋のホテル化
            (それなりの意味がある)
 <しかし>
 A休日は、静かな憩いと安息の日ではなく
  恐ろしく多忙に「する」日と化し、
  レジャーは、「すること」からの解放ではなく
  有効に時間を組織化するのに苦心する問題になる
 B学芸のあり方も
      大衆的な効果と卑近な「実用」の基準が
      滔々と押し寄せてきて
  研究者の昇進が、論文著書の内容よりも
  一定期間に出したアルバイトの量で決められる

▼〈段落まとめ〉
現代日本で厄介な問題は、「する」価値が必要な所で 欠けていて、さほど必要ない面ではかえって進展して いる倒錯が起こっている事である。大都市の消費文化 で甚だしく、休日は安息の日ではなく、むしろ多忙に 「する」日と化しているが、効用と能率原理は、学芸 のあり方にまで押し寄せてきている。

right★発問☆解説ノート★      
・倒錯=本来のものと正反対(逆さま)であること


☆「である」から「する」へという価値基準の変革は  近代日本のダイナミックな躍進に作用する一方で、  急激であったため、「である」と「する」のゴッタ  返しの中 、日本人がノイローゼ症状を呈するという  宿命的な混乱をもたらすこととなった
・臣民への道=明治憲法下の日本人民が模範にすべき        とされた行動様式
・帰一=分かれているものが一つにまとまること
・弥縫=(失敗や欠点を)一時的に取り繕うこと
・国体=戦前の天皇を中心とした国家のあり方
・蔓延=蔓草が延び広がる、いっぱいに広がること

・検証=(実際に物事に当たって)調べ、仮説などを     証明する(事実を確認する)こと
・進展=伸び広がること。
★「する」価値が必要な所で旧来の「である」価値に  妨げられ、「である」価値が意味を持つ所で必要の  ない「する」価値が進展する倒錯が起こっていた

・享受=受け入れて味わい楽しむこと。


・閑暇=することが何もなく、暇なこと
・レジャー=仕事から解放された自由な時間、行楽



・滔々と=水などが淀みなくどんどん流れている様子
・アルバイト=学問上の業績











left★板書(+補足)★        
<第八節 学問や芸術における価値の意味>
       (「である」価値のプラス的な意味)

〇アンドレ・シーグフリード(の言葉)
 ・教養とは<内面的な精神生活>(のことを言う)
    ↓
    ↓(何の役に立つのか)
    ・果たすべき機能は問題ではない
 ・自分について知ること、自分と社会との関係や
  自然との関係について自覚を持つこと

  =(教養の掛け替えのない個体性が)
   彼のすることではなくて
   彼がある所にあるという自覚を持とうとする所
    ↓         (に軸を置いている)
    ↓
<ですから>
▼芸術・教養は<「果実よりは花」>(であり)
 もたらす<結果>よりも<それ自体>に価値がある
    ↓
 ・(文化での価値基準を)
  大衆の嗜好や多数決(人気・値段)で決められない
       (←→但し、価値が解る人には解る)
 ・「古典」が学問や芸術の世界で意味を持つ
         (学問・芸術の創造活動の源泉)
    ↓↑

<政治・経済と学問・芸術との違い>
 @政治・経済には、「古典」に当たるものはない
  (「先例」「過去の教訓」があるだけだ)
    ↑              (根拠は)
 A政治は、それ自体としての価値はない
  <「果実」によって判定>すべきだ
    ↓(結果が全て)
 B現代の政治家にとって、
  「無為」は「無能」でしかない(価値ではない)
    ↓↑
<しかし>
 文化的な精神活動では
 ・「休止」はは、(必ずしも「怠惰」ではなく)
  音楽における休止符のように
  「生きた」意味を持つ
 (不断の前進や労働よりも、瞑想・静閑が尊ばれる
    ↑            (休止により)
 ▼<価値の蓄積>が何よりも大事だから

▼〈段落まとめ〉
学問・芸術・教養は「果実より花」であり、もたらす 結果よりそれ自体に価値(「である」価値)があるのに 対して、政治・経済は「果実」(「する」価値)で判定 すべきであって無為は無能でしかないが、現代は価値 の倒錯が多い。しかし、文化的な精神活動では、政治 とは異なって休止は必ずしも怠惰でなく、価値の蓄積 を可能にする「生きた」意味を持つ。

right★発問☆解説ノート★      
※教養=広く学問・芸術などに接して、自分の存在や  周囲との関係に自覚を持ち、精神を豊かで調和的に  発達させること(で養われる品位)
 原語culture「土地を耕して作物を育てる」の如く
 人間の精神を耕して豊かにすること
・アンドレ・シーグフリード=(1875-1959)フランス  の政治経済学者、著書に『現代のアメリカ』

・個体=それ以上分割されない、独立した一個統一体
★その人にしかなく他に代わりとなるものがない教養  は、如何なる働きを果たすかではなくて、
 自分が如何なる存在であり、周囲と如何なる関係に  あるのか、生きることは如何なる意味があるのか、  という事について自覚が生まれる所に意味がある
 →世界についての認識の仕方が変わる

「する」原理によるのではなく、それ自体の属性と  しての「である」価値こそが大事なのである
 (家族や恋人の如く、存在するだけで価値がある)
    ↑
☆学問や芸術など「である」価値が意味を持つ領域に  効用と能率原理といった「する」価値がはびこり、  政治や経済などの「する」価値の検証が求められる  領域に無為という「である」価値が残っている、と  いう倒錯が生じている





☆それ自体の属性としての「である」価値はなく、
 「する」原理に基づいた機能・業績・結果が大事

・無為、無能、怠惰、休止……
・寡作=芸術家などが作品を少ししか作らないこと


☆学問・芸術・(宗教・教養)
・瞑想=目を閉じて深く静かに思いを巡らすこと
・静閑=(ひっそりと)もの静かなこと、閑静
☆文化的な精神(創造)活動では、休止してもの静か
 に瞑想することで新たに学問や芸術を創造
して、
 より深い価値を蓄積することが可能である











left★板書(+補足)★        
【四】(結)価値倒錯を再転倒する道
              (結論…筆者の見解)
<第九節 価値倒錯を再転倒するために>
         (二つの価値観が結びつくこと)

〇現代のような「政治化」の時代においては
    ↓  (1950〜1970年)
    ↓
<深く内に蓄えられた価値への確信>に支えられて
 こそ<文化の立場からする政治への発言と行動>
 本当に生きて来る        (大事である)
    ↓
 「である」価値と「する」価値の<倒錯を再転倒>
 する道が開かれる
    ↓ (現代の「政治」中心の世界の中では、     ↓  蓄積された価値に支えられる教養ある     ↓  文化的な素養を持った人物が、政治へ     ↓  発言と行動をしていくことが、大事で     ↓  ある。 そうすることで価値の倒錯を     ↓  再転倒させて元に戻すことができる。
    ↓  そして、更に)
    ↓
 ・現代日本の知的世界に切実に要求されること
    ↓          (がある。それは)
<ラディカルな精神的貴族主義>が
 <ラディカルな民主主義>と内面的に結びつくこと       (大衆の嗜好や多数決で決める大衆迎合
       主義ではなく、教養を身に付けた本当        の文芸の価値が解る人の指導的立場に        あることを良しとする考えが)
      (大衆の権利が保障された多数決の原則        で事が決まるという民主主義を良しと        する考えと)
      (一つの価値観として結びつくことだ)
        ↓(トーマス・マンの象徴的表現で)
        ↓      (比喩的に言えば)
 =「カール・マルクスが
   フリードリヒ・ヘルダリンを読む」ような世界
    ↓           (が必要である)
    ↓
    ↓
    ↓
    ↓
    ↓
    ↓
 ・それが、今日話したような角度から現代を診断
      する場合の感想である

▼〈段落まとめ〉
現代のような「政治化」の時代には、深く蓄積された 価値に支えられる教養ある人が、文化の立場から政治 に発言と行動をしなければならない。それによって、 「である」価値と「する」価値の倒錯を再転倒して、 混乱を元に戻し、二つを理想的関係に統合するような 道が開かれる。
そして、少数のエリートが指導的地位に立って政治を 行うことを精神的には良しとする考え (「である」 価値)と、一般大衆が選挙で一人一票の権利を保障さ れて多数決の原則を通して国民主権の政治が行われる ことを良しとする考え(「する」価値)が、結びつき 調和的な一つの価値観として確立されることが必要で ある。

right★発問☆解説ノート★      
・再転倒=もう一度逆さまにして元に戻すこと

☆東西の冷戦、日米安保条約、貧困、左右の対立など  全ては、政治が解決すべきものと考えられた時代
or政治は結果が全てであり、不断の前進や労働が要求  されるから、価値の蓄積もない短期的な対策に終始  して、最重要な問題を先送りする事が多い時代

蓄積された価値に支えられた教養人が、文化の立場
 から政治に発言と行動をして、価値の倒錯を再転倒  させて元に戻すことが大事である


☆「である」価値が意味を持つ領域に「する」価値が  蔓延し、「する」価値によって批判されるべき所に  「である」価値が居座っている、という倒錯
・趣旨=話などで述べようとする肝心の事柄
☆進歩主義者が日和見主義で保守的な事を言うのでは  なく、文化の立場からの政治への関与が必要だから



・ラディカル=根源的・根底的。過激・急進的
・貴族主義=少数の特権階級が、一般大衆より優れて  いるとして指導的地位に立つ、ことを良しする思想
★根源的な古代の貴族主義のように身分・教養があり  知的に優れた少数のエリートが指導的地位に立って  政治を行うこと(「である」価値)を精神的には良し  とする考え方が、
 根源的な古代の民主主義のように一般大衆の権利が  尊重された多数決の原則を通して国民主権の政治が  行われること(「する」価値)を良しとする考え方と  心から結びついて、一つの価値観として確立され、  調和的な政治が行われることが必要である(?)
→一つ間違えば、前者は独裁主義となってしまい、
 後者はポピュリズムに陥ってしまう恐れがある(?)
・トーマス・マン=(1875-1955)ノーベル文学賞を
 受賞したドイツの小説家。「ヴェニスに死す」など
★革命による共産主義社会の実現を提唱する前衛的な  政治学者が、前時代の理想主義的で貴族的な文化の  小説を読むような、調和的な政治が行われる世界が  必要である(?)
 →「する」と「である」の理想的関係の必要性?
・カール・マルクス=(1818-1883)唯物史観に基づく  科学的社会主義を提唱したドイツの歴史学者・経済  学者・革命家。著書に『資本論』など
・唯物史観=物質的な生産力や生産関係の変化が、
      歴史を動かす原動力となるという考え方
・フリードリヒ・ヘルダリン=(1770-1843)理想主義
 的で高貴な作品
を残したドイツの小説家。
・象徴的=抽象的な概念を具体的な事例で譬えること
・要請=必要だとして、強く願い求めること
☆「である」と「する」という対比的な原理により、  日本の近代化の特質と問題点を論ずる。







left★板書(+補足)★    
・「である」と「する」という対比的な原理により、  日本の近代化の特質と問題点を論じている。
    ↓
「である」論理による価値基準が支配的だった日本
 では、近代になって「する」論理の重要性が増して
 きた。だが、現在は両者が交錯して倒錯する混乱
 生じている。それ故に、「である」価値を蓄積した
 教養人による「する」価値への行動が必要
である。


〈要約〉
「である」論理による価値基準が支配的である日本
 では、近代になり「する」論理の重要性が増大して
 くる。だが両者が交錯して倒錯する混乱が生じても
 いる。現在は、「である」論理を蓄積した教養人に
 よる、「する」論理の実践が必要
とされる。

〈要旨100字=24×4+4〉(…参考資料)
近代化とは、「である」論理・価値から「する」論理 ・価値への相対的な移行であるが、現代日本には「す る」価値と「である」価値が倒錯しているという問題 があるので、文化的価値観をいかして再転倒を図る必 要がある。
(二つの価値の倒錯を中心にして、現代日本の問題に ついて分析的に考える)

〈要旨10字=24×4+4〉(…参考資料)
第一を序論、第九節を結論として、「自由」や「民主 主義」と「政治への参加や行動」のあり方についてを 述べる。

right★発問☆解説ノート★      

〈要旨100字=24×4+4〉(…参考資料)
物事の価値基準には、「である」論理・価値と「する 」論理・価値との二つが両極にある。近代化とは、前 者が後者への相対的な移行であるが、その過程では両 者が入り交じってさまざまな変化や問題が生じる。
(我々の日常生活での物事の価値の認め方について)

「権利の上にねむる者は保護に値しないという民法の 精神は、憲法にも当てはまる。また、これは西欧民主 主義の道程がさし示す歴史的教訓でもある。 自由や 民主主義においても、不断に思考や行動を点検・吟味 する日常の実践的努力が必要である。」


left★板書(+補足)★    
〈まとめ板書〉

▼〈第一節…実例と価値基準〉
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 債権の時効 | 国民の主権 | 「自 由」 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
債権者である |主権者である |自由であること
ことに安住  |ことに安住  |を祝福するだけ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
請求する行為 |権利の行使  |権利の行使  
を怠る    |を怠る    |を怠る    
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
債権を喪失  |主権を喪失  |自由の実質を 
       |       |を喪失    

▼〈第二節〉
<「である」論理・価値>(を重視する考え方)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  「属性」として↓ ↓  身分社会
  味が内在   ↓ ↓  ドグマ
    ↑    ↓近↓  「先天的」権威
    ↑    ↓ ↓社会組織の価値
<プディングの味>↓代↓人間関係 〃 
    ↓    ↓ |制度   〃  
    ↓    ↓化↓
  現実の行為を ↓ ↓  現実的な
  通じて検証  ↓ ↓  機能と効用(業績能力)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
<「する」論理・価値>(を重視する考え方)

▼〈第五節〉
  <「である」社会>←←→→<「する」社会>
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
関|家柄とか同族とかいった|何かをする目的の限り
係|素性に基づく関係   |で結ぶ関係や制度
組|           |仕事の必要から生まれ
織|           |た地位や職能の分化
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
偉|封建社会の君主(身分)|業績が価値判定の基準
さ|上役であることから  |(機能・効用・能力)
 |発する        |
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
上|武士は行住坐臥常に武士|仕事という側面だけに
下|まるごとの人間関係  |ついての上下関係
関|(身分的な 〃 )  |職能関係
係|           |

right★発問☆解説ノート★      
▼〈第八節〉
    <政治・経済>←←→→<学問・芸術>
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
古|「先例」「過去の教訓」|「古典」が意味を持つ
典|があるだけ      |(創造活動の源泉)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
根|それ自体としての価値は|それ自体に価値がある
拠|なく、「果実」(結果)
 |によって判定すべきだ |
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
休|「無為」は価値ではなく|「生きた意味」を持ち
止|「無能」でしかない  |価値の蓄積を生む
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 |目先の結果だけを求めて|
 |重大問題を先送りにする|

▼〈第九節〉
現代のような政治家の時代は
 【文 化】(価値の蓄積への確信に支えられる)
   ↓発言 →「である」価値と「する」価値の
   ↓行動   倒錯を再転倒して元に戻すべきだ
 【政 治】
        ↓↓
現代日本の知的世界に要求されるのは
 【ラディカルな精神的貴族主義】「である」価値が
    (本当の価値が解る少数のエリートの政治)
 【ラディカルな民主主義】「する」価値と
    (大衆の権利が保障された多数決の政治)
  内面的に結びつくこと
    (一つの価値観として結びつき確立される)
 =「カール・マルクスが
   フリードリヒ・ヘルダリンを読む」ような世界
     (革命的な学者が理想主義的な小説を読む
      ような調和的な世界)

丸山真男「であることとすること」解説動画@
丸山真男「であることとすること」解説動画A
丸山真男「であることとすること」解説動画B
丸山真男「であることとすること」解説動画C
丸山真男「であることとすること」解説動画D
    ヘンデル「協奏曲ト短調」

(?)丸山真男「であることとすること」解説




left★板書(+補足)★    
〈感想〉
〈参考資料150字=24×6〉
丸山眞男『「である」ことと「する」こと』の疑問 その1
【本】日本人論・日本文化論近代・近代性
 最近、丸山眞男の『「である」ことと「する」こと』(日本の思想 (岩波新書)1958年初出)を読みなおしてみた。1958年初出でありながら、今でも頷く箇所が多い。それだけ普遍的な内容なのだろうと思う。以下の『日本の思想』に収録されている。

 以下、要約してみよう。丸山の主張は、現代の日本は、近代以前の「『である』こと」の思想と、近代の「『する』こと」の思想がごちゃまぜになっているから正していくべきだ、というものである。  近代以前の「『である』こと」の思想とはなにか。それは、身分・家柄・年齢といった「属性」を重視する論理や価値観のことである。江戸時代・徳川時代で言えば、武士は「武士である」というだけで、支配する理由になった。また、儒教思想の「長幼の序」のように、「年上である」「年下である」というだけで、どのように振る舞うべきかが決められていたのである。  一方、近代は異なる。近代は「『する』こと」の論理で動き、「『する』こと」に価値があるとされる。丸山は、債権を例に出して説明する。債権者(お金を貸している人)は、取り立てを行わないと、時効によって債権を剥奪される。同様に、民主主義における「自由」や「権利」も、常に「自由である」「権利がある」という状態でいるのではなく、「自由」や「権利」を行使し続けることが前提とされているのだ、と丸山は述べる。  以上を踏まえた上で、丸山は「『である』こと」の思想と「『する』こと」の思想が、現代の日本ではごちゃまぜになっている、と指摘する。例えば、本来なら政治は「『する』こと」が重視されるべきなのに、「『である』こと」が蔓延していたり、一方で「『する』こと」を重視しなくてもよいはずの休日が「レジャーをする」日と化している。つまり「『である』こと」と「『する』こと」が倒錯しているのだという。それを正しいていくべきだ、というのが丸山の主張である。 日本に限ったことなのか  さて、「なぜ」ごちゃまぜになってしまっているのか。丸山はその理由を以下のように書いている。 …日本の近代の「宿命的」な混乱は、一方で「する」価値が猛烈な勢いで滲透しながら、他方では強じんに「である」価値が根を張り、そのうえ、「する」原理を建て前とする組織が、しばしば「である」社会のモラルによってセメント化されてきたところに発しているわけなのです。 175頁
right★発問☆解説ノート★      
 これは確かにその通りなのだと思う。けれど、この「宿命的」な混乱というのは、本当に日本に限ったことなのだろうか。というのは、他の国も、かつては身分制度という「である」論理があったはずで、そしてそれは、やはり他の国においても「強靭に」「根を張っていた」のではなかろうか。であれば、どの国も「『である』こと」と「『する』こと」がごちゃまぜになっているはずで、日本特有の現象だとは言えないのではないか。   確かに、次のような意見もあるだろう。「西洋における近代化と、日本における近代化は事情が異なる」と。つまり、西洋の近代化は、市民や民衆による運動によって始まったものであるのに対し、日本の場合は西洋の真似しただけで、自発的なものではない、という見方である。したがって、日本にはまだまだ「『である』こと」の論理や価値が残っているのに、「『する』こと」の思想を無理矢理に当てはめたから、ごちゃまぜになっているのだ、と考えることができる。 「『である』こと」と差別  けれど、わたしは「ではなぜ、現在の西洋国家においても差別があるのだろう」と思ってしまう。なぜなら、差別というのは「『である』こと」の論理や価値によって起きるものだ、と考えているからだ。   近代の理念、近代の根本的な考え方に、「自由」とか「平等」というものがある。生まれによって制約されてはいけない、「『である』こと」を理由にして制約されてはいけない、という考え方である。西洋国家が本当に近代化を成し遂げたというのなら、近代の理念もまた浸透しているはずである。なのに、「女である」とか「黒人である」とか「ユダヤ人である」とか「イスラム教徒である」という、「『である』こと」を理由にした差別が、今もなお残っているのは一体なぜだろう。  むろん、以上の話の前提として、そもそも「近代」をどのように定義するのか、という厄介な問題があるのだけど、そのうえで意地悪な見方をすれば、近代の理念というのは「建て前」としてしか浸透していないのかもしれない。であるならば、「『である』こと」の論理や価値は、日本に限らずどの国においても、未だに深く根付いている。根付いているならば、混乱があるはずなのである。  もちろん丸山は、西洋では「『である』こと」の論理や価値が無くなった、とは書いていない。書いていないけれど、少なくとも、「『である』こと」と「『する』こと」の混乱は、日本特有の現象ではないと思うのだが。

貴方は人目の訪問者です